知っていること、そして見えるもの。「人は知っていることしか見えない」。

「選手は、彼らが知ってることしか見えてないぞ〜」。ビジャレアルが育成メソッドの改革に着手した当時のヘッドオブコーチングに何度もそう言われた。特に、自分で探求し発見して得た学びではなく、指導者が教え込みすぎときに。

例えば「おんなは、おとこより能力が劣っている」とか、「日本人は、自己主張ができないから欧州では活躍できない」とかいう偏見のもと育った人がいたとする。そういう人たちは、すぐそばにどんなに優秀な人材(女性であれ、アジア人であれ)がいてもそれに気付くことはないだろう。なぜなら、彼らが見えているのは、彼らが知っている(教わったこと)ことだけだから。

指導においては、なるべく制限をかけるな。四角い箱(枠)の中で物事を収めようとするな。5年前、当時のヘッドオブコーチングにうるさいほど言われた、そんなアドバイスの意味が少し理解できてきたような気がする。

最近、日本でも言語化推進のうごきが活発で盛んにうたわれているが、私たちは逆に「軽率に言語化するのは要注意」と厳しく言われ続けた。

ボキャブラリーはアクションを生む。アクションはパフォーマンスを生む。

ひとつひとつ言葉にすることで、名の無いものに名を付けることで、なんとなく安堵する。また、統一感を得てホッとする。「でもその安心感はだれのものだ?」「そう、大人のものだね」まさにおとなの都合。中途半端な単語や用語、セオリーをつくり上げることで違った現象がうまれる可能性を示唆された。選手ファーストなんて言うけれど、指導者がこれまでやってきたことはまさに真逆。

フットボールは、高さや、強さや、速さを競うゲームではない。むしろかたちにならないもの、可視化できないもの、数値化できないもの、それらを秒刻みで処理、マネージメントしていく競技であり、指導者自らの便宜の良さのためにむりやり言葉にするのは、共通言語をチームみんなで共有できるという利点がある反面、現象やアクションに制限や規制をかけることにもなりうる。だからこそ、裏側にあるそのリスクに充分注意を払って、言語化の作業を進めるよう何度も何度も注意を受けた。

例えばうちのクラブでは、5年前から「攻撃」「守備」という言葉を使わなくなった。「プレス」「プレッシャー」「ボールを奪う」もディベートの議題にのぼったし、ピッチを3つのゾーンに分けてそれぞれに名を付けたり、レーン分けするような、指導者養成スクールの典型的な教えに疑問符を付け続けた。

その証拠に、当時ビジャレアルのU23チームを率いていた現レバンテのパコ・ロペス監督は、最近の試合後の記者会見でも、きっと身に染み付いたのであろうビジャレアルメソッドのまま「攻撃」「守備」といった表現をあえて回避しながら喋っていた。

クラブ内で120名の指導者各々が意見を出し合い、ひとつひとつ熱いディベートを繰り返した。この作業に2年の月日をかけた。

想定できないことの連続の積み重ねが95分ほど続く。それがピッチ上におけるサッカー選手のバックグラウンド。莫大なファクターがからみ合い予測不能な状況下にあるフットボールにおいて、準備できること、リハーサルできることは本当に少ない。情報をキャッチし、解析・分析して、可能な選択肢からひとつ選び(判断)、アクションにうつす。これがサッカー選手のパフォーマンスと呼ばれるもの。さらにこれら一連のプロセスをより短時間、そしてより正確に行うことでクオリティーにつながる。

サッカー指導者が、作戦盤にゾーンやレーンを描いて、マグネットを動かすような教え込みのティーチングばかりを選手に対して行うと、次に起こり得る現象は、レーンやゾーンを頭の中で常に描きながらプレーをする選手が育つということにつながる。実際の試合ではゾーンもレーンも存在しないのに。(私もめちゃくちゃ区切ってました!)

「ビジャレアルはどんな選手を育てたいのか?」その定義作りにも同様に2年の月日を費やしていた私たちは、「指示を待つことなく、自分で判断しプレーできる、インテリで自立したマンパワーのある選手を育てたい」という自分たちが定義した内容に反する指導をこれまで繰り返し行ってきたことに愕然とし、深く反省をした。

またたとえば、プレスをかけるタイミングや位置を詳細にレクチャーして教え込む指導をしていると(めっちゃしてました、私)、想定していなかったシチュエーションが発生したときに「自分で考える」という脳の働きをすでに休止してしまっている彼らは、まずちょっとしたパニックに陥るだろう。さらに言うならば、フットボールは想定していた現象がその通りに起きることの方が圧倒的に可能性として低いスポーツなわけで、教え込みの指導がますます意味を持たなくなる。

考える力を持つ選手を育てたければ、相応の学習環境を指導者がつくってあげなければならない。選手は教え込みのコーチングばかり受けてきているので、「考える」回路がすでに休止状態。どんなに声を張り上げて「自分で考えろ〜!」と怒鳴ってもそれはむりなはなし。

自分で考えて判断できるプレーヤーを育てたければ、そうなるべく指導環境を構築し提供することが不可欠。

この5年間ビジャレアルのメソッド部やヘッドオブコーチングの愛のムチをたっぷりあびた指導者は、そんな気付きに至り、間違いなく指導者として変化し、進化し、いま見える景色が少し変わったと思っている。

そして、指導の意義やおもしろさを新発見した指導者も少なくない。私もそのうちのひとり。