年前、私たちのクラブでは、指導者と指導方法の大改革が行われた。

 

その時にメソッドダイレクターとカウンセラーから提案されたのは、「まずアンラーン(unlearn)から始めよう。」というものであった。

 

アンラーン(unlearn)=学び捨てる、学びはずす、学習の棄却、学びほぐし、などと訳されることが多いようだが、感覚的にしっくりくるのは「学び壊し」という表現かもしれない。

 

育成部に所属する約 120 名の指導者たちは、まずこの学び壊しにより、個々がこれまで信じて止まなかった自分の「スタンダード」や「あたり前」「当然」「常識」を根こそぎ覆され、自身の内面奥底から湧く言葉にならない抵抗感に相当なストレスと苦痛を感じた。

 

その時の私たちの「学び壊し」の対象となったのは、例えば、ホワイトボードとマグネットを使って監督が一方的に選手の動きを指示する試合前のミーティングであったり、トレーニングにおけるエクササイズの構築が「選手(自分の)」ではなく、「相手チーム」に起因した発想であったり、試合中の選手に対するコーチングの一言一言を拾い上げての指摘であったりした。

 

それなりの自信と大人のエゴで溢れかえる私たち指導者には、それらの指摘がまるで自分たちを全否定されたかのようで、とても心地悪く、すねた者、ふてくされた者、ひねくれた者、反抗した者、反発した者、口論した者など、色々いた。

 

いつからか、自分の中にしっかりと根を張っていた指導者としての「因習」や「既成概念」の学び壊しをするその作業こそが、私たち指導者が大きく変化、成長するために必要な作業だったにも関わらず。

 

時代は変り、環境は変化する。と同時に、私たち指導者の「成功体験」も陳腐化しているはずなのに、それに気付きもせず、昔のやり方のままで選手に押し付け指導を繰り返す。何年も、そして何十年も。

 

「育成現場における学びの環境」が、お預かりする選手の成長のカギを握る。

 

果たして、私たち指導者は、日々のトレーニングを通じて「意味ある学びの環境」をどこまで提供できているだろうか?

 

Learn(学び)

Unlearn(学び壊し)

Relearn(学び直し)

 

この繰り返しこそが、指導者に不可欠なのではないか?

 

指導者ひとりひとり、それぞれ異なる「学び」が繰り返される。そうして、こうしたいくつもの「学び」を言語化し、指導者間で意見を交わし、ディベートを繰り返し、クラブ内で共有していくことで、指導者のコーチングレベルを上げていく。

 

習慣化していること。自分が信じてやまない事。そういったことにこそ、あえて「?」マークをつけ、疑ってみよう。きっと沢山の気付きが得られるはず。そう教わった。

 

まさに、指導者の養成・育成も私の仕事であったので、今回の日大アメフト部の一件以来、日本のスポーツ指導者改革について、ついつい考える。

 

昨日の監督とコーチの記者会見。聞かれた質問に対し答えを回避しながらその場を逃れる監督。つっかえ、詰まりながら何とか応じるコーチ。ここにもまた学びの要素がいっぱいだった。いい大人があまりに「語彙が足りない」との指摘も受けている。まさに、だ。

 

声を荒げ相手を黙らせることで人を支配し、物事を解決してきた人間は、恐らくそうした教育・指導環境で育ったのだろう。だから、「言葉」を使って「コミュニケーション」を育み「人間関係」を構築する、といったメカニズムがそもそもない。

 

そのまま大人になってしまった人間が、物事を自分が思うように進めるために、言葉ではなく「力」で人を管理、事を解決そして終結しようとする。おそらく彼らはそれしか術を知らない。まさに悪循環。

 

日本のスポーツ庁は、謹慎とか追放とか罰則とかだけでなく、そんな大人たちを集めて、「学び舎」ならぬ「学び壊し舎」や「学び直し舎」を開校してみてはどうだろうか。

 

日本のスポーツ界には、こうした指導がまだ残念ながらまかり通る風土があり、排除するだけでは解決に繋がらない気がしてならない。

 

人はいくつになっても、いつになっても学ぶことができるはず。誰でも。誰にでも。

 

そして、「指導者を育てる」とは、そういうことでもあるのだと。

 

自戒を込めて。