実はわたしは、わたしに対してこう思ってはいないだろうか?
「わたしは一回読めば大体理解できる能力がある」
こうなってくると、わたしの成長はそこで止まってしまうのかもしれません。
以前に読んだ「対話」に関する本で、理解とは行動ができて初めて完了するというような記載がありました。
あるアイデアやアドバイスがあって「いいな」と思うなら、それをやってみて初めて理解したとなるということになります。
わたしは頭の中で「理解した」と思いますがそれは妄想かもしれません。
学習であればまずは頭に入れる行為があるので完結してるように思えるのですが、それを使った行為ができて理解となるのかもしれません。
行動しないメリットがあるとすれば、一生、死ぬまで「わたしは理解できてない」ことを認めなくて済むことくらいでしょうか。。
株を買って、価値が下がり続けてるけど、損切りして売らなければ損を認めずに済むのに似ているかもしれません。
本屋さんには素晴らしい啓発本がたくさんあり、わたしも買ったことがあります。それを読んで行動できてないので「わたしは理解できてない」を認めず済むし失敗だけはせずに済みます。
最近はそういう本を手に取る意欲さえ減ってる気がしますし。。
いま読んでいる「怒らないこと2」では怒りのいくつかの種類とどのような怒りなのかが説明されているのですが、わたしが普段の生活でその本で言われている「怒り」を感じトラブルになるのであれば「わたしは理解できてなかった」ということになります。
その本で言われている「怒り」にすぐに気づき対処できたら「わたしは少しは理解できていた」ということになります。
「行動が理解の完結編」だと知ってしまったら、もう「一回読めばオッケー」だとはわたしの能力からすると言えない、というか言うなら「嘘」になります。
「繰り返して読む意味があるのか?」というのが「意味がある」とすればそれは行動して失敗し、理解不足が判明した後なのかもしれません。
行動するとき「あれ?どうすれば?」となるなら、読むときに飛ばし読みしたか、大事だと納得した箇所をメモ書きしておらず忘れてしまったということになりますかね。。
※ここでいう本やさまざまな読みものは、娯楽のためのものではありません。
わたしは好きな漫画や映画を何回も何回も観ますし「イン・ザ・プール」などは何度も借りて読みます。
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