風にのってきた花の香りが鼻をくすぐる。
少し気怠いこの体に、柔らかい温かさを含んだこの風はなんとも心地良い。
??「夜風に当たってたら、体調崩しますよ?」
襖が静かに開く音と共に、自分より少し若い声が振ってくる。声はどこか呆れていて、どこか労るような優しさを含んでいた。
俺は静かに視線だけでそちらを見た。
「……もはや女房のような甲斐甲斐しさだな、市。男にしておくは惜しい」
表情を変えず、小さなため息をつきながら、山田市之允はそっと俺の橫に腰を下ろす。
手の中の盆の上には、とっくりと杯が一つずつ乗っていた。
「酒を持ってこいといったのは高杉さんでしょう?」
「あぁ、礼を言う。今日はとても良い気分なんだ……」
素直に礼だけ告げると俺は再び夜空を見上げる。
澄んだ夜空には星一つなく、美しい春の朧月だけ優しく光り輝いていた。
「……またあの人の事を思い出していたんですか?」
「なに?」
「いつもあなたが話している島原の女性ですよ。その方の話をするときの瞳をしている」
「……」
「違いますか?」
確信を突かれ過ぎて、俺はふっと片眉をあげ、口角をあげる。
「さすがだな、ますます男にしておくのが惜しくなる」
「……そんな口ばっかりだから伝わらないんですよ……」
「……そうかもしれんな」
俺の返した言葉が意外だったのか市は、はっと顔をあげ俺を見る。
いつもなら、睨みつけてやるところだが、今日はそんな気分になれず、自分でも緩んだままの顔で、その美しい月から目を離せずにいた。
「……しかし……先の短い男より『鬼』の方がマシかもしれん」
そのつぶやきに、市は何も答えなかった。ただ、こく、と言葉を飲み込む音だけが静寂な部屋に響いた。
My LOVE 泣き出しそうなの ふいに溢れてくる切なさ
Your LOVE 恋しくて Pleace
せめてその声を聞かせて……
逢いたくて逢えない 季節だけが過ぎる
あなたは ねぇ どんな道を あれから歩いてるのでしょう
離れて初めてわかった かけがえのない愛があったこと
あの娘も、こんな月のように優しく美しかった。女に不自由などしたことはなかったが、あの不思議な小娘に心奪われるなんて……昔の俺ならば腹を抱えて笑い飛ばしていたところだ。
何度、島原から連れ去ろうかと考えたか、両の手を持ってしても数えきれない。「月は手に入らないから、なお美しく感じ、なお愛でたくなるものなのだ」どこかの文献で読んだ気がする。
まさしく、その通りだ
人斬るだけの幕府の犬、ましてやその中でも『鬼』と称される卑劣な男に惚れるなんて、男を見る目がないな。
だが……あの男を想う○○の瞳はどんなに着飾った絶世の美女より美しいと思えたものだ。
しばしの沈黙が流れる。
俺も市も、鳥や虫の声さえもしない。ただ時が止まったかのように、お互い静かに月を見上げていた。
時折吹く風が、手の中の猪口の水面を揺らす。
「……また聞かせて下さい」
「………………」
「『この俺より鬼を選んだおもしろい女』の話ですよ」
少し含みのある言い方ではあったが、市なりの気遣いだと取ることにしてやるか。
「……あぁ、またこのように美しい月の晩にな」
そう鼻で笑う俺を見届けると、市は一礼し、部屋を出て行った。
月明かりだけが照らす部屋の中でまた一口酒を煽った
哀しみもいつかは 思い出に変わるのかな
痛みのカケラさえ なくしたくないすべてを
(……そろそろ寝るとするか……)
猪口を盆に戻そうとした時だった――――
ゴボッ
胸の奥が火のように熱くなり、噴きだすような水音を立てる。
手から猪口がこぼれ落ちた。
と、同時に口から溢れた赤いしぶきが畳を染めていく。
(待ってくれっ!まだっ……せめて……もう一度、もう一度だけあいつに……っっ!)
薄れゆく意識の中で声にならない悲痛な思いが頭をよぎっていく。
あなたは きっと永遠に 私の宝物だから
二人で過ごした記憶を
大切にして ずっと 忘れない・・・
もはや自らの意思で動けなくなる体が、赤い海へと沈んでいく。
自分の『象徴』ともいえる赤い着流しがさらに深い赤へと染まっていく様を
優しい月だけが静かに見ていた
イラスト:ボタン様