12月11日(月)

午後、高校の後輩から届いたのは

同級生の訃報。

数年前から乳がんと闘っていたが

そのことを周囲には伏せていて、

数日前に症状が急変したのだという。

私にとっては小学校から高校まで

ずっと一緒だった友人だ。

数少ない幼馴染と言ってもいい。

彼女のことをここに記しておこうと思う。

私の個人的な記憶として。

 

お姉さんは、本人から度々私の名を

聞いていたと伝えてくださった。

同じ仲良しグループだったわけでもなく、

私は彼女と仲が良かったことさえ

そう言われるまで気づかなかった。

だけど私は彼女、まいぼんのファンだった。

私の亡き母までファンだったのだ。

 

同じクラスだったのは小5か小6か。

彼女は当時から抜群にクリエイティブだった。

彼女の使う色は明るく鮮やかで、

アイデアはいつも誰にも似ていなかった。

 

木工の授業でレターラックを作った。

私のは無難すぎる三角屋根の家。

私はとにかく美術が苦手だった。

まいぼんが作ったのはペリカン。ペリカン便!

みんな縦型にしていたのに、

まいぼんだけが横型に作っていた。

黄色いペリカンは、鮮やかでポップだった。

 

タイヤで走らせるおもちゃを作る

授業もあった。

まいぼんが作ったのはスーパーマン。

まいぼんはスーパーマンの、

というかクリストファー・リーヴの

大ファンだったのだ。

右手を突き出し赤いマントを翻し

机を這うスーパーマンは

ものすごくチャーミングだった。

 

あんなに楽しそうに何かを作り出す人を

私はその後も他に会ったことがないと思う。

私は美術が苦手だったけれど、

美術を鑑賞する楽しさを教えてくれたのは、

まいぼんだ。

 

私はいつもまいぼんがどんなものを

作ったかを母に話すのが好きだった。

「まいぼんはきっと開花する!」と

母はまるで先見の明のように言っていた。

私と同じ進学校に進んだことさえ

「芸術の道に進んでほしいのに」

と心配していたくらいだった。

 

卒業後はお互い東京の大学に進んだ。

まいぼんは美術系のコースに進んだので

母は喜んでいた。

 

東京に出てきた者同士ということもあるし

お互いやんわりとマスコミ志望という

近いジャンルにいたこともあったからか

それとも私が彼女の作品を好きだと

いつも言っていたからか、

その後も時々どちらからともなく

会ったりしていた。

 

一人暮らしの彼女の家にも訪れた。

ドアストッパーは石膏で作った腕。

リビングには

手製のモビールが揺れていた。

バスルームに水中メガネがあって、

理由を尋ねると「水の中での見え方を

もぐって確認しようと思ったん」と。

彼女の人生は小学校のときと変わらず

ポップでクリエイティブだった。

 

学校の課題で描いたという

ピカソのキュビズムの技法で描いた

大きな自画像があって、

私がそれをすごく褒めていたら

プレゼントしてくれた。

 

 

大学を卒業すると彼女は東宝に入った。

「ゴジラの尻尾作っりょるよ」と。

本当か比喩だったのかはもうわからない。

砧のスタジオで社員のお花見会があって

友達も来ていいと言われたからと

誘ってもらったことがある。

東宝スタジオの桜はとにかく

圧倒的な量で咲き誇っているし

初めて入る映画のスタジオも大きくて

自分がミニチュアのように感じる

不思議な日だった。

 

 

その後、日本科学未来館の広報をしていたが

とにかくものづくりの近くにいた人だった。

高校の同窓会を私達の学年が運営したときも

クリエイティブな力で活躍してくれた。

 

 

「たまたま学校に図工の科目があったから

図工が好きやっていうんと出会えて

ラッキーやった」とある時、言っていた。

「乗馬が授業にあったら、

乗馬やったかもしれん」と。

小さい頃から大好きなものと出会えて

職業であってもなくても、

ずっとその近くて生きてきた彼女は

すごく輝いた人生だったと思う。

 

私もたまたま国語の科目があったおかげで

国語と出会えてラッキーだった。

この先もできる限り、

好きなことの近くで生きていきたいし、

そうしている限りこの先も一生時々、

まいぼんのことを思い出すと思う。