一度出会ったら、人は人をうしなわない。
たとえばあのひとと一緒にいることはできなくても、
あのひとがここにいたらと想像することはできる。
あのひとがいたら何と言うか、あのひとがいたらどうするか。
それだけで私はずいぶんたすけられてきた。
それだけで私は勇気がわいて、
ひとりでそれをすることができた。


江国香織さんの「神様のボート」です。
これも私が、もっとも好きな小説のひとつです。
以前、毎月恋愛小説をフラワーアレンジで表現する
連載を担当していましたが、
ほとんどこの本を扱いたくて始めたといってもいいほどです。
そのときに引用した部分とは違うところを選んでみました。

主人公はほんのひととき、強く愛し合った恋人のために、
娘とふたり、16年間もの旅を続けます。
けれど彼女は、幸せなのです。
彼を愛していることにはなんの変わりもないから。
たとえそこに彼がいなくても、
もしかしたら彼がもう生きていなくても。
彼の記憶がある。彼の声が聞こえる。
心の中で、彼は生きている。

考えてみれば、今会っていない人はみんな、
心の中で生きている人なのです。
これを読んでいる今、あなたは何人の人といっしょにいますか?
ひとりの人が多いのではないでしょうか。
でも、きっと孤独ではないはずです。
心の中に多くの人が生きているから。
私たちは、心の中に小さな家をたくさん建てて、
そこに大切な人たちの居場所を作っているのではないでしょうか。

愛するって、そういうことじゃないかと思います。
遠く離れていても、いっしょにいることができなくても
だれかの中に私たちはきっと住んでいる。
私たちの中に、愛する人たちが住んでいるように。

これはあのひとのいない世界ではない。
歩きながら、私は考える。
あのひとと出会ったあとの世界だ。
だから大丈夫。なにもかも大丈夫。