私が病気になる過去は変えられません。 

 1つ、後悔しているとしたら、精神科医の父に 

 「ゆりあはいわゆる発達だと思うよ。まぁ人間なんてスペクトラムのどこかに…(省略)」 

 と言われたことをすぐに主治医に言わなかったことです。 

 主治医から発達の診断は受けていません。途中まで検査を受けて、診断されることが怖くなって、やめました。

 主な特徴は注意力散漫でしょうか。もっと早くに発達を受け入れられれば、もう少し何かが違ったかもしれません。 

 発達の薬に出会うまでは、大学受験に必要な集中力が圧倒的に欠けていました。ちなみに、発達の薬もいくつかあると思いますが、私が飲んでいるのはコンサータです。

 発達の薬ということで、自覚した当事者だけでなく、その親も初めは悩むかもしれません。

 偏見とか、いろいろ。

 私は、コンサータは先天的に欠けているものを補うためのものだと思っています。


 ※身体障害者の方はこの後の表現で気分を害される恐れがあります。予めご了承の上お読みください。


 脚がなく生まれた人が義足を作るように、

手がなく生まれた人が義手を作るように。 

 私は脳のどこか、あるいは遺伝子レベルのどこかが欠けているのだと思っています。 

 脚がない人が頑張って生やそうとしても生えないように、私も先天的に足りないものがあると思っています。 

 頑張っても生やせませんもの。

 脚がない方が義足を使うことはおかしいでしょうか。 

 手がない方が義手を使うことはおかしいでしょうか。 

 発達障害の薬は、義理の能力だと思っています。 

 もちろん、薬の合う合わないはありますし、診断がおりないと薬はもらえません。 

 やたらと管理が厳しいカード持たされます。

 私は、発達障害で薬を飲むことを恥だとは思いません。 

 それを恥だと思うことは、身体欠損がある方を恥ずかしいと思うことと同義だとすら思います。 

 脳が欠けている訳ではありませんが、先天的にどうしようも無いものを恥だとは思わないからです。