こんな感じの暮らしが3ヶ月ほど続いた。主人の祖母・祖父はあまり顔を出さない。

私は「そろそろ実家に帰ったら?」と言われた。居づらいし、精神的に参ってきていた。

どこを検査しても異常が見つからない。医師には「ストレスをためてますね」と言われた。胃がむかむかするのである。暫くして主人の会社からはがきが送られてきた。それには医療費が書かれていた。わたしの名前の隣に金額が書かれている。それを見ているときに姑がやってきた。そのはがきを見ると「まぁ!医療費が高いこと!」と声を張り上げた。医療費の高いことにしか目がいかないんだなと思った私は呆れた。

私は、実家に帰った。お産をするためである。

実家は安堵感がある。しかし、あの姑の態度、これからうまくやっていけるのかどうかと思った。

おなかが大きくなり、体型が変わる。いやだなぁと思った。しかしおなかの中には子供がいる。どんな子供かわからない。しかし小さな命を守らねばいけない。どんなことがあっても。


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こうして主人と私は普通の生活を送り、休みが終わった。

私は朝6時に起きて、朝ご飯を作り、一緒に食べた。朝にアニメを見て、それから主人は出社する。私はその後洗濯をし、干した。12時になり、お昼ご飯を作っていたそのとき、勝手口からとんとんとノックが。

なんだろうと思い、鍵を開けて出ると姑が鬼のような顔をして立っていた。

「ちょっと!洗濯物を取り込む時間でしょ!何で鍵かけてるの!」と言う。晴れていたので2時頃に取り込もうとしていたのだが・・・

あっけにとられた私は「まだ早いと思いますが」と言うと、姑が「早くなんかない!もう乾いている」と言うので外に出た。すると明らかに私が干したのとは違う。姑が干しなおしたに違いない。そういえばそばでうろうろしてたっけ・・・干渉されるのは嫌な私は気分が悪かった。しかし、姑の言うことを聞かねばならないと思った私は身重の体で慌てて取り込んだ。取り込んであとでたたもうと部屋においておいた。それからお昼ご飯を食べていた。するとまたこんこんとノックが。また鍵を開ける。「鍵かけないでって言っているでしょ!なんで洗濯物をたたまないの?」と姑。ご飯を食べる暇がない。早速たたんだ。部屋のカーテンは主人が開けておく。レースのカーテンすら開けておく。主人に聞いたら「母さんがこうしろって言うから」と言う。つまり部屋は丸見えと言うことになる。部屋は2部屋。ふすまを開けたらすべて見える。なるほど、監視するために開けさせてるのね。私はそう思うとともにこれからの結婚生活が見えてきたように思えた。息苦しい生活。同居と変わらないどころかストレスたまりそう、そう思った。

ご飯を食べたのは2時だった。食べ終わり、片付けているとまたとんとんとノック。「買い物に行きましょ」と姑。私は5時頃から買い物に行こうと思っていたのだが。慣れてないし、一緒についていくことにした。近くの生協へ行き、一緒に買い物をした。どっと疲れた。うちに帰るとおなかが張っているような気がしたので横になって休んでいた。もともと私を嫌っている姑。何かしら文句を言う。6時頃夫は帰ってきた。この日は夫に言わず、黙っていた。そして二人でテレビを見て就寝した。


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突然電話が鳴った。朝6時頃である。主人が出た。どうやら姑らしい。私はそれで目が覚めた。新しい冷蔵庫を覗くと、卵と野菜が少し入っていた。主人は眠そうな目をこすりながら着替えた。私も着替えると朝食を作り始めた。前の日の疲れがまだ取れない。しかし、嫁としてやらないといけないことは果たさないといけない。主人は3日ほど休みをもらうことができた。妊婦の私を気遣ってか、「買い物に行こう」と言う。なべなどは一通り揃っているので、食べ物だけを購入しに行った。二人で始める新婚生活。これからどうなるか分からない私たちは幸せそうに見えたかもしれない。昼食は外で済まし、たくさん買って、冷蔵庫に入れるとカレーの準備をして、2人でテレビを見ていた。すると勝手口からとんとんとノックの音がした。誰だろうと開けると姑だった。手には切干大根の煮付けを持っていた。「おばあちゃんにあんまり行くなと言われたんだけど、これから料理するの大変でしょう、カレー作ってるの?」と言う。なぜ分かるんだろうと無頓着な私は不思議だった。切干大根を押し付ける。私は笑顔で「ありがとうございます」と言うと受け取った。カレーに切干大根の煮付け。この組み合わせは忘れられない。

カレーが出来上がり、2人で黙々と食べた。私が後片付けを済ますと2人でお風呂に入り、就寝の準備をした。やはりまだ疲れが残っているようだった。2人とも早々に寝てしまった。


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いよいよ結婚式。私は着付けをしてもらい、化粧を施し、慣れないかつらをかぶり、着物を着て神前結婚式を挙げた。やり方を教えてもらったがわからないまま、指輪の交換をして滞りなく終わった。三三九度も妊婦なので、飲むふりをした。そしていろいろやったのだが、とにかく辛くて早く終わって欲しいと思った。終わったら写真を撮った。主人の祖母からは「とても綺麗よ」と言われた。なかなか要領よく人が集まらずてこずった。そして2人だけの写真。撮り終わるとそのまま披露宴会場へ向かった。私は目が悪く、コンタクトにしたかったのだが、主人の母は「めがねをかけたらいいじゃない」と常識はずれの事を言った。仕方ないので私は見えないまま主人の袖をつかみ、歩いた。着物は案外と重かった。付き人がついてくるくらいだから、普段着物を着ている人は大変だろうと思った。席についていろいろ始まったなと思ったが人の話を聞くのが苦手な私の事、さっぱり聞いていなかった。ただかつらが重いのと、具合が悪かった。しかしそんな事はお構いなしに式は進む。お色直しの時間が来た。ここで赤い着物に着替える。着物はもうたくさんである。周りを見ると食事をしているようだった。私は祖母に「式では食べてはいけない」と言われていた。とてもじゃないけど苦しくて食べられなかった。後で折り詰めにしてくれるだろうと思い、丸残しをしてしまった。そしてまたお色直し。今度は白いドレスなのだが、化粧をちょっと変えて、写真を撮り、主人と一緒に登場。やっと楽になると思いきや、やはりお腹がなんとなくはっているようで苦しくて動きづらかった。妊婦の結婚式と言うのはちょっと辛いものがある。やはり付き人がついてくる。ドレスは意外と重かった。晴れの舞台なのに気分は下がる一方。しかし、顔は笑顔でいなければならない。着席して、スピーチが終わるとカラオケが始まった。人の歌を聞く余裕がなかった。主人は酒をたしなむ程度なのだが、お酒を注がれ、それを飲んでいた。突然司会者の人が「ここで友人たちと一緒に歌を歌ってもらいましょう」と言った。突然の事なのでびっくりした。私は自慢ではないが歌はとても下手。中山美穂の歌だったのだが、知らなかったので、友達に合わせて歌った。そして終わるとまた席に戻った。
ケーキカットの始まり。主人と一緒に行った。感動はあまりなかった。不安だけが渦巻いていた。こんな新婦は珍しいだろう。普通は幸せいっぱいのはずだ。

周りはもう出来上がっている。そんな中、いよいよ私の楽しみにしていた色ドレスを着る事になったのだが、具合の悪さがさらに悪化した。控え室で「我慢してたんですけど具合悪いです」と言うと「じゃあやめますか?」ときつい口調で言われた。ちょっと驚いた。確かにもう2度と顔を合わす事はないかもしれない。しかし、式に出ている以上は「お客様」のはず。こんな態度をされるとは思わなかった。すごくいやな思いをした。ただでさえ不安が行きかう中、10分ほど休んで「・・・行きます」と言った。心なしかお腹が張っているような気がした。退院して1ヶ月ちょっとなので体力はついてない私。やっとの思いで着替えて、写真を撮り、式場へ向かった。

やはり付き人がつき、着席して少しするとキャンドルライトを主人と行った。全部の席のろうそくに火をつけ、最後に記念のでかいろうそくに火をつけたのだが、なかなかつかず苦労した。今思うとこれが結婚生活を物語っているのかもしれない。何とかつけて終わった。披露宴は終わりとなり、控え室に戻った。疲れがどっと出た。ドレスを着替えるとき、マタニティドレスを見て、華やかな気分が打ち消された。終わったんだなと思った。やっとの思いで着替えると周りには誰も居ない。式が始まったのが遅かったからかもしれないが。

主人は待っていた。2人でタクシーで新居に向かった。新居は姑たちの家と敷地内同居である。ついた頃私はお腹がすいたので主人に言うと「何かもらってくる」と言い、出て行った。10分ほどしてもらってきたのが赤飯。私は無言でそれを食べて、歯を磨いて就寝した。これが新婚初夜であった。


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私は、退院して暫くの間実家にいた。半月くらいだろうか。10月10日に結婚式を挙げると言う話で主人と私の家族は結婚式場の事でもめた。何しろ、状態が状態だっただけに無理かと思われたが、退院して元気になったから「せめて式くらいは挙げましょう」と言う話になったのだ。ところが、めでたい話なのに、主人の母は何かと注文をつける。「元服でやりましょう」と言ってみたり、「引き出物は別々に決めましょう」、「うちは会費制でやりますから」などと言う。主人に父はいない。いたらここまで勝手な話はさせないと思う。しかし、うちでは相手の注文を聞くような度量は持ち合わせていなかった。結婚式場も決まり、ある日ドレスの試着をしにいった。主人の母は、どう見ても古臭い、誰も着ないようなドレスを押し付ける。私はそれを振り切り、自分の思い通りのドレスを選んだ。白いドレスに関しては何も言わなかったが、色物のドレスに関しては「それ、派手すぎる」と主人の母は言った。「でも、他にサイズないですから」と私はどこまでも押し通す。一生に一度だし、写真に残るのでどうしてもそれを着たかった。そして5ヶ月になったお腹は少し重たく感じた。ドレスがはまるのだろうか。そればかり考えていた。今思えばそれが幸せだったのかもしれない。式場の人は「今できちゃった婚が多いので大丈夫ですよ」と言う。それで少し安心した。どんどん話が進む。当たり前の事だが、退院して決める事が多すぎる。かつらの大きさなんてのも頭が小さすぎて特注だと言う。それでも当日ずり落ちたりしないかどうか心配だった。そしてドレスを着たときの髪型やエステ。エステは式前一週間から始めた。効果あるのかなーと思ったが、だるい体を引きずりながら通った。確かに肌がつるつるになるような気がする。化粧ののりをよくするためにやるのだが、気分的に違う。実感というものが沸いてくる。当日まで一週間。ひたすら通い続けながら、たんすなどの調度品を見に行って揃えたりした。


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さて、生むことに何とか渋々賛成してくれたものの、つわりは容赦なく私を襲った。まったく食べれなくて1週間が経ち、また入院。7月の下旬ころだった。担当医は研修医で私に「後学のために付き合い方を教えて欲しい」とか「どうやって付き合ったの?」とか言い始めた。そして出される食事は普通食。食べられないから入院しているのにやっていることがおかしい。夜中に看護婦が「何で彼は見舞いに来ないのか」としつこかった。また、妊婦が飲んではいけない薬を私に処方した。私と彼は仕事が落ち着いて、休みが取れた8月16日に籍を入れた。点滴は24時間。睡眠時間はほとんど無い。シャワーを浴びるときも吐き続け、起き上がっても吐き続け、顔を横に向いただけでも吐き続けた。涙があふれ出て仕方なかった。看護婦は点滴の管をきちんとはめなかったせいで、血が床一面に滴り落ちていた。ナースコールを鳴らした。来た看護婦はすみませんの一言もなしだった。私は気づくまでうたた寝をして、三途の川を渡ろうとしていた。目が覚めるとそんな状態だったからびっくりした。周りの人の迷惑になると思い、「個室に移して欲しい」とお願いしたが、「2人部屋ならありますよ」と言われ、そこに移された。そこに移されたのはいいのだが、食べ物の話をされただけでも吐く私は、耐え切れなかった。これが1ヶ月続いたある日、担当医はどんどんやせ細る私に「中絶したほうがいいでしょう」と言った。「私は生みます」と言ったらとんでもない言葉が出た。「結婚して欲しい」と。父はめったに見舞いに来なかったが、来た時に言った。やせ細った私の顔を見て怒りだした。「何だこの病院は。転院させる」と言うと3日以内に転院の手続きが済んだ。危うく私と子供が殺されるところだった。私の体重は妊娠3ヶ月にして40キロだった。12キロも痩せたのである。お腹なんてぺたんこでとても妊娠している体には見えなかった。

転院するために起き上がってびっくり。なんと腰が曲がってしまったのである。それは今でもその位置が痛い。あとで検査したのだが軽いヘルニアになっていた。私は転院するに当たり、6人部屋にいたときお世話になった人に挨拶に行った。「いくら経ってもよくならず、中絶しろと言われたので転院することにしました」と言ったら、「そうだったの~あなたのときだけやたらと研修医がそばにいるから親切な病院だと思っていたら・・・さびしくなるわ」そう言ってくれた。立っているのもやっとな体だったので、すぐその場を去ったが体が痛い。母はそれを知らず、「腰を曲げて歩くな」と言う。車に乗り、私は横たわった。もうティッシュのにおいまでかぎ分けることができるくらいであった。使ったティッシュは25箱である。口にしたものはお茶だけである。

そのまま病院を変わり、体重、身長、血液検査を終えるとベッドに横たわった。

先生は「実はここまでひどいつわりは初めてなんですよ、でも全力を尽くしますから」と言ってくれた。私は自分が生まれた病院であんな目にあうとは思わなかった。ここではどうなんだろう?でもこの言葉を聴いて安心した。「無理して食べなくていいですから」先生はそう言ったが・・・

次の日、いきなり給食が来た。まるで離乳食のようだった。おいしそうなのだが見るだけで吐き気がする。しかし看護婦は「食べないといけないですよ」と言う。一口だけ食べてみる。やはり吐いてしまう。もうこのまま中絶なのか、いや、子供を生まなければならない。昼もチャレンジした。やはりだめだった。夜もだめだった。まったく食べられない私。その日はそのまま寝た。

次の日私はあることを考えた。口の中まできたものを無理やり飲み込もうと言う作戦である。実践した。そうしたらなんと食べられるようになったのである。入院は10日ほどだったが、食事はとてもおいしかった。退院間近には普通食まで食べられるようになっていった。先生は「丁度4ヶ月に入るところで安定してきたのでしょう」と言ったが、私は違うと思う。精神的に安定したのだと思う。一生懸命私のためにメニューを考えてくれたり、弱気になっていた私を励ましてくれたり、何より「出産」という大イベントに向けての不安が取れたのである。こうして私は退院した。


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次の日、私の母と彼の母は会うことになった。母はある喫茶店で彼の母と会ったのだが、非常識ぶりに怒りを炸裂して帰ってきた。

話し合いの内容はよく覚えてないが・・・

彼の母「お宅の娘さんがたぶらかしたのでしょう?うちの息子には大卒のお嫁さんがほしいから」

私の母「そんな事言われても現実には、娘のお腹には赤ちゃんがいるのですよ?」

彼の母「なんとかしたらいいじゃないですか」

私の母「娘は一人でも生みたいといってますが?」

とまあこんな感じである。

話し合いにはならなかったようだ。その場にいなかったので分からないのであるが、かなり言っていることがおかしかったらしい。

私はつわりで苦しんでいた。ほとんど飲まず食わずだったのである。そしてとうとう入院した。最初の入院は1週間。担当医の先生は優しかった。そのときのつわりの度合いも軽かったので、退院できた。

退院してから、突然彼と彼の母は給料明細書を持って現れた。

それには13万強の金額が書かれてある。

彼の母「これで結婚してやっていけると思えるんですか?」

私の父「本人同士の問題でしょう、後はわれわれが何とか助けていくしかないでしょう」

私は具合が悪くて話の内容をすべて覚えてなかったが、結局、子供を生むということになった。


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秋田に帰ってきた私は就職活動をした。しかしなかなかない。そんな時、父親が「俺の事務所に来い」と言った。月に10万円くれると言う。嫌だった。なぜなら同じ性格で気が合わないからである。

いまなら楽にこなせるであろう、事務の職&測量も毎日苦痛で仕方なかった。そんな時、彼と子供を作ればいいんでないかと思った。そうしたら逃げられる。しかし、世の中はうまくいかない。なんと、ある士業の人が言い寄ってきたのである。どうしよう、下手に断れないし・・・そうして7ヶ月が過ぎた。

体に異変が感じたのは平成5年6月ころであった。生理がこなかった。いつも遅れるので気にも留めなかった私だが、60日以上も来なかった。おかしいなと思った。そしてある夜、ご飯を見ただけで吐き気がした。母親は感づいたらしい。「すぐ救急外来へ行こう」と言った。

病院に行くと、専門医がいなかった。いきさつを説明したら、先生は四角いプラスチックのものを取り出して、「これにおしっこをかけてください」と言う。私はおしっこをかけて、先生のところに持っていった。

「陽性ですね、おめでとうございます。妊娠してます。詳しい検査をしますので2階に上がって待っててください」と言ってくれた。

私は嬉しかった。子供ができにくい体だと言われていたことがあったので、小さな命が育まれているということが。ところが、看護士が「この人未婚なんですよ」と言う。

2階に上がりながら、私の母と話をする。看護士は「未婚なのに、生んだら大変だ」とか「結婚するの?まだ20歳でしょ?」と子供を堕胎しろと言わんばかり。私は「一人でも生みます」と言った。母はまだびっくりしていて、看護士の話を聞いていて、やはり堕胎したほうがいいのではとどっちつかずだった。私は生理が遅れていた時点で覚悟を決めていた。やがて30分ほどで専門医が来てくれた。中に入って超音波の検査をした。あと内診もした。「今6週目に差し掛かっています。来年の3月9日当たりに生まれるでしょう」と言った。私は豆粒のような赤ちゃんの姿を見た。どんな顔なんだろう、早く見てみたい衝動に駆られた。これからどうなるか分からずに。

診察が終わった後、私は彼に電話をかけた。「いくらかかるの」と言われた。やはり一人で生んだほうがいいようだと思った。「また後で電話するから」と言うと電話を切った。まだ見ぬ赤ちゃんのほうが大事である。

家に帰ると、父に母が興奮して話をしていた。父は「そうか・・・」と言うと黙った。怒りもしなかった。「結婚しろ」と父が言った。私は「一人で生みたい」と言ったが、父は「そんなことできるわけないだろ」と言った。

父はとりあえずなんか食べろと言う。やはりご飯はだめだった。

次の日の夜、彼が家にやってきて、何も言わずに土下座をした。父は頭を上げるように言った。そうして家の中にあげて、「どうするんだ」と彼に聞いた。彼は黙っている。とりあえず話し合いをすることと言うことで彼を帰した。


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4月から、彼は秋田、私は東京。遠距離恋愛である。電話代にお互い、月5万円くらいかかった。

私は入社式に出て、これから張り切って頑張ろうと思っていた矢先であった。

派遣会社なのだが、月給制で働かなくても給料がもらえるのである。寮は格安の12000円。突然室長が変わると言う。働かない間は東京支社にいて「待機室」で待機するのだが、そこの室長が変わってしまうと言う。とても優しい人であった。新しく来た室長は週に一度月曜日に説教をし、待機室で私が勉強をしていると勉強してなくて寝ている人とかに話しかけていた。話によるとこの室長、どうやらどこかの会社をパソコンができずに「リストラ」されたらしかった。それでも友達が何人かできたので楽しかったが、6月のことだった。突然頭が殴られたような頭痛がする。顔も痛い。近くの病院に行ってみたが、耳鼻科がなかった。そこで紹介状を書いてもらった。その病院に行くと「手術しましょう、ファイバースコープだから大丈夫です」と言う。東京に来て不安だった私は親に電話した。親はやってもらいなさいと言う。私も耐え切れなくていたのでやってもらうことにした。この病院では手術は予約制で7月2日でないと空かないという。その前に手術前検査をしたのだが、そこで気管支炎にかかっていたことが発覚した。休みを取るのに室長はすごく嫌な顔をした。私も東京に来て、悪化するとは思ってなかったので、とりあえず11日休みを取った。手術は無事終わった。上顎洞の中にポリープがたくさん出ていたのである。3日に室長が花を持ってやってきて一言。「疾病手当金は出ませんよ。あなたからだの具合悪いのに隠していたんですね」と言うと去って行った。そんなこと言いに見舞いに来たのか、と頭にきた。そしてさらに「そろそろ夏休みだし、休んだら?有給休暇つきませんけど」と嫌味を言う。私は休んだ。そうしたらその後、派遣の仕事が来た。建設会社のファイリングである。いろんなことをしたが、1ヵ月で契約が切れた。思うように仕事ができなかったのか・・・私は落ち込んだ。執拗な室長の嫌がらせと説教で会社が嫌になった。そして私をやめさせようとする。私は精神的にダメージを受けた。血尿が出始めた。鼻の手術を受けに入った病院に行き、精神科と泌尿器科に行った。精神科では「うつ病ですね、会社を辞めて実家に帰ったほうがいいですね」と言われた。紹介状を書いてもらった。泌尿器科は5月と8月にかかった。8月のは、吐き気までしたと伝えたら「こんなに頻繁に起こるもんじゃないんですけどね、慢性化しているのでしょう」と言われた。私は会社に殺されると思った。友達は室長なんか無視してればいいと言ってくれた。しかしこのころから私の心は蝕まれた。結局耐え切れずに辞表を書いた。9月のことであった。


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入学式を終えると、教室に入り、誰も友達のいない中座っていた。すると「あなた高校同じだったよね」と話しかけてくれる人が一人。「違うクラスだったんだけど覚えてる?」・・・確か国公立理系クラスだったような。

こうして、友達はできた。

ところが何日か過ぎ、同じクラスの人2名が交通事故に遭い、一人は死亡、一人は助かるといったことが起こった。まだよく知らない人たちだったが気の毒だと思う。私たちはクラスで葬式に出た。

ある日、私は顔の異変に気がついた。痛いのである。と同時に膿のようなものが鼻から流れ出た。耳鼻科に行ってみた。レントゲンを取った。すると「片方だけ異常がありますね、慢性副鼻腔炎でしょう。普通は両方なるんですけどね」と医者は言う。「鼻を洗ってみましょう」と鼻に水を入れたのだが効果はなかった。「おかしいですね」と医者。「CTとって見ましょう、予約入れていってください」そうしてこの病と戦い始めた。思えば小さいときから鼻水が出ていた。母親に訴えてもかぜだろうと取り合ってもらえなかった。CTをとってもやはり頬の右側に異常がある。私は医学書を調べた。片方にあるのは癌だったりすることが多いと書かれていた。不安だった。調べないほうがよかったのかもしれない。

とりあえず治療法としては吸引と服薬だった。それでもなかなかおさまらない。医者は首をかしげた。風邪を引くと顔が痛くなり鼻水がひどい。学校は休みがちになる。

それでも私の周りにはいろんな人が集まってきた。主に男子が多かった。過去にいじめにあった私はちょっと恐怖だったが、みんないい人たちであった。ある一人を除いては・・・

それなりに楽しくやったと思う。だけど、寝ている間も鼻水が止まらず、苦しい思いをした。薬は3種類ほどであった。覚えているのはムコダインとエンピナースとルリッド錠である。

私は、集まってくる中で言い寄ってきた人と付き合うことになった。ただ、私も世間知らずなのか「マザコン」と言う存在を知らなかった。まさか、そんな人だとは思わず付き合っていた。確かに非常に優しいが、どこか変なのである。家においでと言うので行ってみたら、「門限は何時なの?」とかいろいろ聞いてくる。そして次の日彼から手紙を渡された。内容は「お母さんが付き合うのをやめなさいといったから付き合うのをやめたい」と。私は何で直接言わないのよと言った。それでも付き合いはやめなかった。

2年生になり、就職を考えなければならない時期になった。壁にはたくさん求人票が貼ってある。しかし、どこに行くかといった考えはなかった。いいなと思ったところはあったのだが、すでに殺到していた。成績の悪い私はとても無理だろう。先生に薦められたところに受けに行った。結果は惨敗である。私はいい加減落ち込んだ。周りの人はみんな決まりはじめていると言うのに。私は求人誌を持って、「ここはどうでしょうか?」と言ってみた。先生は「・・・前例がないからな、でも受けてみるか?」

そうして受けてみることになった。結果は合格であった。嬉しかった。しかし、東京に行かないといけないと言うので不安だった。しかし就職が決まっているので、残りの学校生活はゆとりのあるものであった。