先週はずっと「認知のゆがみ」について論じた文章を翻訳していました。
その文章は、たまたま編集部から私にアロケートされたのです。

「認知のゆがみ」とは人間が自分の感情を正当化しようとして無意識に事実をゆがめて認識してしまうことです。これはたいていネガティブな思考や感情を増幅するので結果としてろくなことが無いようです。どのようなタイプの「ゆがみ」がその人に発生しがちか分析すると、その人が囚われがちな思い込みがわかります。人間はどんな人でも例外なく、多かれ少なかれ認知のゆがみから逃れられません。だから、せめて「今、自分に認知のゆがみが起こっていないか」と自省していくしかありません。

かいつまんで言うとそんな内容でした。具体的なゆがみの傾向が10種類挙げてあり、どれも「そういうことってあるよね」と思わせられるものばかりでした。

ブログをしていると、ごくたまに的外れなコメントが入ってきます。どれにも共通なのは、私の文章をちゃんと読まずに(だから的外れなんですけどね)、勝手な思い込みで自我をぶつけてくることです。

そういうふうに受け取る人もいるのね、とは思いますが、私が書いているのは政府のおふれでもなければ学校の教科書や取扱説明書でもなく、単なる個人的な文章なので、全ての人に誤解されないようにする必要もないと思います。Politically correctであるように心がけてはいますが。

批判を受け入れないわけではありませんが、通り魔的な悪意あるコメントは当然スルーしています。相手も行きがけの駄賃に人の家に石を投げ込んだみたいなもので、返信ははなから期待していないと思われるようなレベルの内容です。

あの庄司薫さんを引き合いに出しては恐縮ですが、彼も芥川賞受賞作の『赤頭巾ちゃんきをつけて』を世に出すと、批判の礫を浴びたようです。それに対して彼は「とにかく読んでください。」と穏やかに言い続けました。内心は「本当に読んでいればそんな批判は的外れだとわかるでしょう」と言いたかったのでしょう。

先週、翻訳コーディネーターの仕事の話を書きました。ある翻訳者が契約書の翻訳を納品してきたら、日本語として読んで意味がわからない部分があったので翻訳者にその文の意味を確認した話でした。その翻訳者は最初、それこそ的外れな返答をしてきたのですが、結局は英文では書かれていない文言を補ってその文の意味を説明してくれました。おかげでその文の意味は明確になりました。

まあ、そういう話を書いたのですが、そのブログ記事に対して読者のMさんが「その文はこういう意味ですよ。」と2通もコメントをくれました。

本文中で既にその不明瞭な文の意味は翻訳者が回答してあり、私も理解したと書いてあったのにです。

Mさんはこの2年間、ブログでコメントを交換してきた人なので無視できません。この際、「わあ~、さすがですね。すごいです。良く分かりましたね。」とお世辞で返しておくかな、と一瞬思いましたが、彼女とのこの2年間の交流を思うとそれも不誠実だと思いました。でも、彼女を傷つけずに返信するのはちょっと工夫がいるなあ、と思い、仕事も立て込んでいたので、悩みながら1日放置していました。そもそも長い解説や議論を私のブログのコメント欄に残すのは本意ではありません。

Mさんはもともと実務能力が高く、なんにでも一生懸命な人。きっと親切で私を助けようという気持ちからくれたコメントに違いないと思いました。

他人のブログをしっかり読む人はきっと少ないと思います。Mさんに限った話ではありません。「この文章は意味不明」と私が書いたのを読んだMさんは、その数行下にあった翻訳者から来た説明も読んだのだけれど、そこは認識から落ちてしまい、自力でそのわかりにくい文の意味を解明した気になってしまったのでしょう。

これが「認知のゆがみ」です。

もし本当に自力で意味がわかったとしても、もともと回答まで書いてあるのに、わざわざ私に「その意味はこうです。」と教えてくるでしょうか。普通はそんなことはしませんよね。やはり回答の部分を読んでも認知のゆがみにより「回答も読んだ」という事実が抜け落ちてしまったのでしょう。

Mさんは「私はわかった!」という得意な気持ちが強くなりすぎて、他のことを全てドロップしてしまったのです。

でも、ここまでなら、まあ、人間そういうこともある、考えようによっては無邪気な人だと思って相手を傷つけず同時にある程度現実も示唆する穏便なコメントを工夫して返そうと思っていた私です。

ところが、その翌日、彼女から(正確には彼女の夫のアカウントを借りて)
「コメントをスルーしたのは、自分の知性が傷ついたと思って悔しかったのか」

という攻撃的なコメントが来ました。

これには本当にびっくりしました。

今日は「認知のゆがみ」について書くつもりなので、知性の定義については掘り下げませんが、ほんの2日コメントを返さなかっただけで、突然天女が悪鬼のように変貌するのは解せません。

さらに、私のそのブログ記事にはもう1人別の翻訳者のTさんが登場するのですが、その翻訳者の「クライアントに直接は言えませんが、海外と取引するのならば、それなりに契約のこと等、勉強する必要があるような気がします。」という発言部分を読んだMさんが

「その翻訳者の言うことはもっともだと思います。勉強した方が良いのはユリさん、あなたですよ。」

と書いてあったので、またまた読み違いに唖然としました。

この場合の「クライアント」とは私のことではなくて、翻訳を依頼してきた会社様のことです。

私のブログに「いちげんさん」なら仕方がないですが、翻訳コーディネーターがどんな仕事かは何度か拙ブログで説明してあるので、それを読んできたMさんにわからないはずがないです。でも、ここでも「認知のゆがみ」により、わからなくなってしまったようです。

私のそのブログ記事は「私ももっと法律用語を勉強します」という趣旨の文で終わっているので、「勉強するのはあなたの方ですよ」はそれにも矛盾します。勉強するって自分で書いていますよね。

そうかと思えば、「あなたの記事がリブログされました」とアメブロからお知らせが飛んできたので、何かと思えば、Mさんが私のその記事をリブログして「これを読んで私は頭、悪くないと思いましたよ」みたいな記事を長々と書いているではありませんか。

そのため私のその記事は削除しました。悪意のあるリブログは実に不愉快です。それともそこまでして私の気を引きたかったのでしょうか。

「認知のゆがみ」のパターンには、他人のしたことを過小に評価する、こうあるべきという気持ちが強すぎて他人が思った通りに動かないと非難する、たった1度のことでレッテルを貼り過剰に一般化する、早合点してわかった気になる、感情的にこじつけるなどがあるそうです。

「認知のゆがみ」に関する文章の翻訳がちょうどこのタイミングで私に回ってきたのは、天の啓示かもしれません。

人間である以上誰も逃れられない「認知のゆがみ」。

「自分は認知のゆがみに囚われる可能性がある」ということを常に自覚して、自省して自制するしか無いようです。

先週はMさんのコメントやリブログで私の心が波立っていたので、1週間待ってからこの文章を書きました。このような分析的で批判的色合いのある文章を気楽なブログに載せるのは全く本意ではありませんが、この2年間の彼女に対する最後の誠意として書きました。

他人のブログにコメントするときは、自分に「認知のゆがみ」が起こっていないか何度も慎重に確認してからにした方が良いようです。特に批判的なコメントの場合は。

自戒を込めて。