*ネタバレ苦手な方は避けて下さい。

 

 

 

 

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251p
 

敷地の調べのためケルティカに向かった「分校設立団」の助教たちが繁華街をうろついて「適当な場所なし」という報告を送ったのは2月末のことだった。彼らから見るかぎりはどうせ不可能な任務であった。これくらいしたら学長の気まぐれにも十分に付き合ったし、最初のその城に行くといいだろう。


しかし想像も出来なかった返事が戻ってきた。
『研究施設は略し学生だけのための場所を考慮する。規模は最少限度でもいい。周りの環境と建物の居心地や老朽化の程度も関係無し。4月以内にかならず開学することだけを重要視する』



254p
 

ケルティカ出身の友だちは田舎娘である、いや、正確には隣人もなく異空間の田園で父と二人きり過ごしていたティチエルに、ケルティカの高すぎる物価と、田舎者は生き残らない冷たすぎる人心について生き生き説明しながら怖がらせたことがあった。こんなところで最少でも半月は生き残らないとならない。
 

もちろん彼女には「父に連絡する」という手早い解決策があったが、今すぐはそうしたくなかった。父さんには、いってきます、と挨拶したじゃない。なのにすぐ呼ぶのは恥ずかしいから。
 

路地に出ると広さではケルティカでも数えるノバリス大路が見渡せた。昼間なので大勢の人が大波のように通りかかっていた。ネニャプルより人口の密度の高いとこに住んだことがないティチエルの目にはその中に入り込むのも難しそうに見えた。旅館がどこだといわれたっけ。まっすぐ出て左に行ってから二度目の路地で二度曲がれと言われたけど。。。


でもどこまですぐ行けっていうことだったかしら。向こうにも道が見える。
もちろんこの大通りまで、の可能性が高いけど、確実じゃないからまずはあの道が終わるとこまで行ってみて、左に道があるか確認してから戻ってくる。もしあったら二度目の路地があるのかも確認してみて。。。
 

そうやってティチエルが完璧な結果をだそうとしている化学者のようなやり方で迷子になる旅程に上がった直後、次の生徒が到着して路地に首を出した。



256p
 

「うむ、建物か。それで何をするつもりだ?」
「まだ知らない。食堂でもするかな」
 

カルツ財団は色々な事業に手を伸ばしているが、食堂を開いたことはまだ無かった。ドメリンの目元がわずかに振るえた。
 

「どうして食堂を選んだ?」
「内の学校の皆は食べるのが生きがいだから!そうだ、スショカ(*)という物も売らなくてはな。それないと自殺しているという子達もいるんだ。自殺は止めないとだめじゃん」
 

あとしばらく会話があったが、とにかくカルツ氏は息子に建物を買ってあげた。ただし、条件があった。
 

「ネニャプル分校がそこにある間に、買った建物をお前がうまく使って購入費用の四半分に当る収入を収めるのだ。出来るか?」
「そうする!」
 

息子の心地好い答えに、カルツは心の中で呟いた。息子よ、建物の値段くらいは聞いてみろ。。。

(*すっぱい、しょっぱい、からい味がするネニャプルだけの漬物のデザート。美味しくないけど、妙な中毒性があるといわれる。1巻では意外なことにランジエが研究所でよく食べていました)



267p
 

「入室料とは別途にして何かの利用料を策定するのはどうだ?利用するしかないもので。たとえば。。。井戸とか」
 

ルシアンが目を多く見開いては言った。
 

「ボリス、それ本気?完全悪党の主人だ」
「お前が商人らしく考えると言ったじゃないか」
「商人と詐欺師は違う!」
「それほどに悪いのか」
「うん!冷酷すぎ。僕じゃなくてボリスが建物を買ってたら父さんから言われた通り儲たんじゃない?」
 

そういってルシアンはまだ涙組んだままでえけらけらと笑い始めた。ボリスは当惑して自分の言ったことを考え直した。
大陸のあっちこっちを歩き回る中、そんな風に運営する旅館は多かった。
部屋の代金を払っても井戸の利用料は別途、風呂の利用も別途、
甚だしくは窓を開けることにも金を払わさせるとこまであったんだけど。



269p
 

「それで一月にどれほどの赤字が出ると?」
「うむ。。。およそ3千エルソくらいかな?」
 

普通の人間なら聞くだけで心臓麻痺が起こっても可笑しくない規模だった。ランジエはルシアンの顔をじっと見てから建物を一度見上げて、短いため息と共に気を取り占めた。



270p
 

「君、前に教授に抗議して試験の問題無効にしたことあるでしょう。その時みたいに僕の赤字も無効にしてくれないかな!」
「そのことはただの偶然だった。そして試験問題で間違いを見つけることと、一月に3千エルソを稼ぐ能力は何の関係もないと思う」


そうは言ったが、ランジエは目を伏せて考え込を始めた。その時コラ婦人が二つのシューとお茶を持ってきてテーブルに置きながら笑って見せた。


「前にお話した友だちの方ですか?うちのシューを味わって見てください。この持ち主の方からもうネニャプル分校の名物として目星をつけているものです」
「ありがとうございます」
 

バタークリームにヘーゼルナッツのフラリンが入れたシューを見下ろしていたランジエはふと首を傾げては一口食べてみた。彼は再びコラ婦人を見た。
 

「失礼ですが、以前、他の場所でもこのシューを作ったことはありませんか」
「あ、もしかしてエシク婦人のシューを食べたことが。。。ちょっと待って、その頃を覚えている年ではないでしょうに」
 

ランジエは微笑んだ。
 

「エシク婦人の友だちの家で食べてみたことがあります。やはりエシク婦人の知り合いでしたね。その婦人からあの方のカフェを引き受ける人がいなくてレシピも失われることになると嘆きましたが、ここで立派に継いでいたのですね」
 

コラ婦人の顔も明るくなった。
 

「やはり彼女を知ってる方でしたね!会えて嬉しいです!私はあの方の厨房で働きましたけど、婦人が私は料理に才能があると言ってデザートの作り方を直々伝授して下さったのです。厳しい人ではありましたけど、私には誉めて下さる事も多いでした。婦人がカフェを畳んでから私はここに来て店を開けたのですが正直、婦人のシューと比べると恥ずかしい。ここは学生が集めるから値段を下げるために安い材料を。。。おっとっと、これは話しては駄目だったかしら」
 

でもコラ婦人はその後も長々と昔話をした。久しぶりにエシク婦人を知ってる人と会ったのがとても嬉しかったみたいだ。見知らぬ人と長く話すことはなかったランジエも何のことか雑談をよく受けてくれて、いくつか問いもした。
しばらくして、隣りで聞いていたルシアンがふっと質問した。
 

「そのカフェはどこですか?近くにありますか?行ってみたい」
「ここからは少々離れています。でもさっき申し上げたように、閉店して何年も経っているので今は半分廃虚みたいな状態です」
「そうなんですか?店の名はなんです?」
「『フロレゾン』です。オルランヌ語で『花咲く季節』という意味だそうです。オルランヌから来た常連さんが作ってくれた名ですって。美しい語感ですよね?」
 

コラ婦人がそこがどれだけ綺麗だったか、食べ物はどれだけ美味しかったか食器とカトラリーはどれだけ高級であったか、出入りする客たちもどれだけ上品だったか説明していく内にルシアンの顔にもだんだん活気が巡り始めた。
 

「シュトルーデル街なのですね?ところでエシク婦人という方はどこに住んでいますか」
「あ、それが、ケルティカを去ったこと以外は私も分かりません。お元気かしら。帰ってきてまたカフェをあけて下さると嬉しいでしょうに」
 

するとランジエが言った。
 

「残念なことですが婦人からは去年、亡くなられました」
 

コラ婦人は大きく驚いてランジエを見た。
 

「あ、そんな。。。彼女がまたフロレゾンの門を開けてくれるのをいつも待ってたのに。私だけじゃない、多くの人が私と同じ気持だったはずです。その店に思い出がある常連の客様たちも多いです。悲しいことですね。あ、急に涙が。。。すみません」
 

コラ婦人はしわを作りながらエプロンを掴んでは店の奥に小走りで入って行った。二人きりになるとルシアンはランジエをじっと見てから言った。
 

「僕、本当良いこと思いついた」
 

ランジエが怪訝な表情でルシアンを見た。
 

「もしかして。。。」
「そう!そのカフェ、僕が買ってまた開始するんだ。ぱっと来たんだ。最高のアイデアだろう?お前のお陰だよ!ありがとう!」
 

ルシアンががくりと立ち上がって上の層に懸け上がると一人残されたランジエが階段の方を振り向いてまたも首を傾げた。
 

「今まで赤字の話しをしていたはずだが」



275p

「なぜ僕を?」
「何言ってるの?君しかいないじゃん!」
「うーん、君と一緒にしないでほしいけど」
 

そう言ったわりにはジョシュアは素直にルシアンに付き合いフロレゾンに行って状態を調べた。ルシアンは通りがかる人々に意見を聞き、ジョシュアはカフェの中に入り埃だらけの内部を歩き回りながら内部の構造や動線、いくつかの色あせた絵、壊れたタイル、階段と床の材質などを一々見ていた。すこし後、頭の中で過去の風景を完璧に描いたジョシュアが言った。


「よし。投資するよ。昔の姿を最大限に復元するという条件で。古すぎるところは僕が修繕してみるから」
「わあ!君だから完璧にしてくれるでしょう?最高!もう楽しみになってきた!」
 

しかしルシアンは知らなかったが、ジョシュアがシュトルーデル街9番地に来たのは今度が最初ではなかった。人々が周りをうろうろしている理由もよく知っている。だけど彼はルシアンがこのカフェを見つけ出して直接運営すると心を決めた過程にだけは興味があった。
彼はルシアンと同じくこの建物を買うか、ちょっと思ってみたけど友だちがそれに喜ぶか分からないので保留することにした。



277p

「おい、その部屋は持ち主あるぞ。現実を見ろ」
 

ルシアンが学宿を運営する前からすでに空き部屋のままにしていたその部屋の住民はいつものように遅れてはいた。もしかしたら口癖どおり本当に学校をやめたのかも。これ以上の落第行為は許せなかった教授たちによって退学されたかも。もしくは気ままに寝坊するため、故郷にいる兄弟たちのもとに戻ってしまったのかも知れない。
あらゆる噂が流れる中で29日の朝が来たけどその部屋は相変わらず閉ざされていた。空いたベッドの上には一筋の弦もない古いバイオリンが静かに置かれていた。