手術日当日は朝からOP室に入って、

両親達はずっと病院にいてくれて

終わって家に戻れたのは午前2時を過ぎていたそうだ。

生後3ヶ月の時、

18歳の時、

31歳の時、これまでの手術も8時間はかかる手術ばかりだったけど、

今度の移植手術は12時間をゆうに越えていた。

それまでの手術は、

その当日の内に自分でも目が覚めて意識が戻ったと自覚していたけど、

今度のは違った。

ICUで自分がいつ目が覚めて最初に誰を見たかなんてことがいっさい記憶に残っていない。

ICUにいた日数も11月16日から12月2日まで17日間。

混沌とした暗黒か真っ白の世界が交互に前後錯乱してやってくる、

時間の止まった空間っていうか、恐ろしい所だった。

最初の個室空間では、空調関係が管理されていて

絶えずその音が静かだけど聞こえていて、

明かりは24時間明々と点いていて窓もなく、

閉ざされた空間。

病棟の個室と錯覚して・・・

あると思うものがそこにはなくて、

何度もここはICUの個室だから、それはないんだと諭される。

2週間以上も、ベッド上に横たわってる状態。

身体の苦痛も然ることながら頭の中がおかしくなっていた。

ICUの看護師さん達にお世話になってるのに、

ひどい暴言を浴びせていたようだ。

『私達だって、心は傷つくんよ』と看護師さんに言われていたから、

よほど、私、喚き散らして憎まれ口を叩いていたんだと思う。

私にしてみれば、看護師さんを呼んでもなかなか来てくれなくて、

わあわあ大声でちっちゃな子どものように大泣きし続けていた。

別の部屋から透き通って見えるので、(ガラス張りだった)

そこで、私の様子に気づいていた麻酔科の先生らしき人が、

看護師さんに行ってあげてと言ってくれてるのが聞こえたこともあった。

時間ごとにICUの看護師さんの私の担当になる人が代わっていくし、

担当とは別にその都度やってくる人も代わったりしてくる。

こんなところでも、看護師さんとの相性という人間模様も影響するのだ。

大変な重労働の看護師さんたちなんだから、仕方ないと思うけど、

あの人はこわいから、嫌だとか、雑なやり方で嫌だとか、

個人の好き嫌いの感情がICUという環境の中ではひどく、

お互い影響し合ってしまうと思う。

部屋に音楽を流してくれてるのはうれしいことだったけど、

タイタニックのミュージックは死を連想させられ恐ろしくなった。

ラジオから、広島の原爆で亡くなった、折鶴を折ってた禎子さんの実話を

元に詩が作られ歌われていた『祈り』という曲が流れてきた時は、

大声でおいおい泣いて泣いて泣けてきて仕方なかった。

嗚咽のような涙が止まらなかった。その、苦しみは私のものだと思った。

前、肝性脳症で

禎子さんが実は自分だったんだという虚構の世界にいたことがあったので、なおさらだった。

ICUでの時間が長いと、面会時間には、小学生の息子以外は入れ替わり来てくれた。

意識がしっかりしている時と

錯乱してる時と日によって違っていたらしい。

『大声でわめきたてて、はずかしかったわ』と父から聞かされたりした。

だいぶ後に娘から聞いたことだけど、

妹が私が寝てるだけで動かないのに、そばに座ってじっと見つめていたんよと。

妹の心が伝わってきてありがたさが身にしみた。

娘がボーイフレンドを連れて面会に来てくれた時もあった。

その時は結構普通に話ができたと思う。(身内以外入れないICUなのに)

個室だから、DVDや、テレビを見てもいた。

が、恐ろしい事件のサスペンスものが怖かった。

死を連想させるもの、すべてが怖かったし、

DVDも、以前に公開されてる映画の紹介が出てきてるのが、

私の頭を錯乱させた。そのことを娘達に訴えた記憶がある。

24時間、まる1日、『ぽにょ』を繰り返し繰り返し見て眠らなかった夜もあって、

看護師さんに怒られた。

ICUにいると、朝、昼、夜の感覚が麻痺して気が狂いそうだった。

狂っていたけどなお狂いそうだった。

『プーさん先生、呼んできてー』と看護師さんに言ったらしく、

誰のことか看護師さんはわからず、困って、

(当たり前だ。それは病棟の私の担当医の一人の先生のことを娘と2人で勝手につけてたニックネームだもん。)

別の太めの先生がやって来た。

その先生はドナー側の担当チームの先生で、

私はよく、知らなかったから、『あんた、誰?あんたじゃない!』

と不仕付けなもの言いをしてしまったこともあった。

身内が面会に部屋に入ってきてくれたとわかった、

自分でしっかり認識できた時はすごくうれしかった。

ドナーになってくれた夫がやってきたときは無事でいてくれてほっとした。

~**~**~**~パート30につづく・・