2:「是動」と「所生病」二十二難の解釈で引っ掛かること | ゆらら治療室だより

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はりきゅう治療室ゆららは稲毛海岸にある女性のための鍼灸治療室です。

 霊枢で伝えようとしていることと難経で伝えたいことは違うようである・・・ということをふまえながら本間祥白先生の「難経の研究」を何度も読んでいると、どうしても引っ掛かる部分がいくつかあります。

 

①「是動」という言葉

 原文や読み下しにはひとつも「是動病」とは書かれていないのに当たり前に「是動病」と「所生病」と対になっている名詞として認識されていること。

 本文中の「経言」から霊枢経脈篇を参考にしたためと思われますが、難経においても「是動病」として考え進めていいのか・・・。

 とくに日本語で読むと病名として受け止めやすく解釈に影響を及ぼすのではないかと思いました。

 

②「邪在気、気為是動。」の部分

 一般的に病邪が気の部分にあると変動を起こして病となり是動病となる・・と訳されていますが、「是動者気也」であって病とは書かれていません。

 そもそも「気」とは常に動いているもので、外邪が来ればそれから守る働きがあるため「動くを為す」もののはずです。

 気の病とは「気留而不行者~・・・・」とあるように気がめぐらないときに初めて病むのではないでしょうか。

 

③「是動」の対の言葉が「所生病(しょせいびょう)と読んで良いのか。

 やはり日本語で読むと病名に捉えてしまいがちだと思います。

実際はそのように読んでも構わないのかもしれませんが、理解を深めようとするならば所生病ではなく「病の生じる所」の方がスムーズではないのかなと思うわけです。

前後の文から「気」が動きやすいものとのことであるなら「血」は動きにくい気と言い換えることが可能です。

動きにくいものだから「所」なのではないかと考えます。

 

④なぜ最後の部分だけ所生病ではなく「所生」なのか

 是動に対し所生とは言わず「所生病」と繰り返し表わしていたのにこの部分だけ「所生」と表わしていることに何か意図を感じずにはいられません。

難経の著者は、的確に正しくすべてを伝えたいと強く考えていることはすべての難を読むと明確だからです。