おっ、久し振りに友人から画像の送信が(^.-)☆
 拝見しますと、お花見で〝常國寺〟に出掛けられましたようであります。

 >お久しぶりです。
 >今日、熊野町の常国寺へ遅めの花見に行って来ました。散りはじめでした。写真送ります。   
 との事で、既に散り始めでしたとか(^-^)

 ◆常国寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 常国寺(じょうこくじ)は、広島県福山市熊野町にある日蓮宗の寺。山号は広昌山。建立は文明18年(1486年)、当時沼隈半島一帯を領有していた渡辺兼(山田渡辺氏)による。旧本山は京都本法寺。親師法縁。

 ・歴史

 -- 渡辺氏との関係 --
 渡辺兼は、若いころ京で日親上人の説法に感動して帰依していた。その後、国に戻ると付近で辻説法をする老僧のことを聞いた。これが日親上人であるとわかると、兼は上人を居館へ招き、上人に寺院建立を願い出た。こうして、常国寺は日親上人を開山として建立された。

 -- 鞆幕府時代 --
 戦国時代、常国寺は室町幕府崩壊期にも脚光を浴びた。織田信長に追われて逃れてきた室町幕府の15代将軍・足利義昭は、毛利輝元の庇護下で鞆幕府を開いた。
 この鞆幕府の所在地となったのが渡辺民部少輔元の一乗山城であり、渡辺氏の菩提寺であったこの常国寺も幕府の重要な政務機関となっていた。
 義昭は渡辺氏の格別の働きに感謝し、白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許して守護大名格としたが、その際に常国寺にも唐門を贈った。渡辺元はこれを将軍門と名付け、現在でも市重文として残っている。また、義昭ゆかりの品も数多く遺されている。

 ◆福山市常國寺が宗門史跡に

 --- 日蓮宗新聞 2018年8月10日号

 広島県福山市常國寺が「日親上人西国布教の道場」として宗門史跡に指定され、7月3日に認証式が東京都大田区の日蓮宗宗務院で行われた。
 全国で22番目の宗門史跡指定で、広島県では初の指定となった。
 常國寺は領主の渡邊越中守兼が「なべかむり日親」として有名な久遠成院日親上人を招いて文明年間(1469~87)に創建した寺院。日親上人は九州総導師として九州布教に尽力。京都市本法寺(現・本山)と佐賀県小城市光勝寺(現・本山)間を幾度となく海路を使って往復した。
 常國寺は瀬戸内航路の要港・鞆の浦に近く、風待ちや中継点として常國寺に留まることが多かった。同寺には日親上人に関わる貴重な寺宝が格護されている。また同寺の創建により地域の法華信仰が盛んになり、周辺地域一帯が皆法華に帰依し、多数の講中が同寺を信仰の拠り所とした。
 また織田信長に京都を追放された室町幕府最後の将軍・足利義昭が同寺に寓居したことで鞆幕府とも呼ばれた。義昭は上杉謙信など全国各地の有力大名に打倒信長の書状を発したが、同寺にはそれをしたためる際に使われたとされる硯・筆などが収められた蒔絵硯箱が現存する。

 認証式で中川法政宗務総長は「宗門史上、日本史上で重要な役割を占めただけでなく、現在・未来の布教に資する内容を持った点が指定の決め手となった。講中をはじめ古来の信仰の姿を現在にとどめていることは、全国の日蓮宗寺院に対する範ともいえる。この指定が地域におけるさらなる信仰の盛り上がりにつながると期待している」と話した。
 濱田壽教住職は「檀信徒はこの指定を喜んでおります。ますますの信仰の増進と護持に向け、檀信徒とともに今日から心新たに精進いたします」と応えた。
 中尾堯文宗宝霊跡審議委員会副委員長は「日親上人創建の寺院は30余あるが、本山の本法寺に次ぐ存在がこの常國寺であろうと考えられる。京都の戦災・天災から避難して運ばれてきた貴重な宝物がある。一円皆法華が達成され、現在も住職と講中がつながり合っている。法華信仰のあり方の理想を今も示している貴重な寺院といえる」と話す。常國寺のある熊野町には現在37の講中があり、寺から6㌔以内には大小30以上のお堂が飛び地境内に現存し、法華信仰の拠点となっている。また明治12年に始まる「法華経漸読千部会」は毎年4月上旬に5日間にわたり僧侶のべ約90人が出仕して営まれる。その際には地元の小学校に入学したばかりの1年生による稚児行列が盛大に行われ、春の風物詩として地域に親しまれている。

 …と、こんな〝常國寺〟、そして、〝宗門史跡指定記念碑〟ですネ。
 届きました画像は、早速、GONsanの絵日記に使用させて頂きます事に。サクラが満開でしたら宜しかったのに、散り始めとはチョッと残念でしたネ(^-^)//"

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