誰か他の人の為に生きるの?
私は傷ついて息もできないほど
・・・(オフコース)
人は何のために生きているの?
自分の為?
それとも他が為?
祖師これを糞穢よりもいとうなり」
『谿声出色』
道元禅師は
「あなたがたが望んでいる名聞利養は
実にむなしい名誉や
よこしまな利益を望む心にすぎない
もっともいやしむべきものだ」と
厳しく戒めている。
「自利」とともに
「多利」の精神も忘れてはいけない。
人生ってなんだろう?
今東光は「続 極道辻説法」の中で
生きる事の意味を問われ、
仏教にそのような教義があるのかも
問われている。
それに対し、今東光は
「そんな言葉はないね。
自分で考えるこった。
自分の糧は自分で得る以外に
方法はないじゃないか。
また生きるってことは、
死ぬために生きていることでなぁ
(中略)
ただそれだけのことさ。
何をとぼけた質問をしやがる。
こん畜生め!
とにかく確かなことは、
死ぬために生きてるってことだけだ。
何もしなくてもとにかくその人の寿命の尽きる
その瞬間までは生きていなくちゃならない。
だからどう生きようと、
どう恋愛しようと、
死ぬために生きてんだからかまわないわけだ。
ただそれだけのことさ」
今東光の言葉は何度も読んでいると
そこに真理と人間愛に溢れていることが判る。
天台宗の大僧正なのに仏教という枠にけして
囚われていない。
「自分の糧は自分で探すしかない」とうのは
まさに
「自分で掛けた首輪は、自分でしか外すことができない」
ということ。
「死ぬために生きる」ということは
真理そのものであって、
それは実は仏教を含めたすべての宗教が
実は答えを出せていないということだ。
一休禅僧は、
お正月に杖に頭にドクロをしつらえて
歩いたといいますが、
これは目出度い日の後ろにも、
常に死というものが
背中合わせにあることを
忘れていけないということを
示していました。
不安が絶えない無常の世の中、
死を考えて初めて人生を生き切れる
ということを教えています。
今東光は、このような答えを一見答える時は
「俺のやってる仏教では」という風に
特定していることが多い。
それは、まさに仏教だけでは、仏教ですら
答えが出せないというこを知っていたからに他ならない。
「どう生きたって・・・どんな恋愛をしようが・・・」
一見突き放している言葉にみえるが
実は深い深い人間愛に溢れている。
ここで、今東光はすべてのことに
一つ一つのことがらを
一期一会の精神で
一生懸命生きるしかないことを諭している。
人生は死ぬまで
何を自分がこの世に残すことができたか・・・など
そういった生きた証とか名誉ではなく、
自分が人のために
何をしてあげることができたか?
僕に接点のある人たちに
どれだけ良い影響を与えることができたか、
その人たちにどれだけ愛を注ぎ幸せにすることが
できたとしたら、
それが良い人生ではないのかと・・・
今東光の著書「痩せた花嫁」の中に
こんな一節がある
「水と空気とアンタだけがいればいい」
愛する人に、そんなことを言われたら
幸せだろうなぁ
その人のために命を賭けて
24時間、大切な人のことだけ考えて生き続けるのに