価値にひかれる心 | 1級フードアナリスト ユピロ菌の迷える子羊達へ

1級フードアナリスト ユピロ菌の迷える子羊達へ

悩んでいたときに救ってくれた言葉や料理をおすそ分け。仏教に自分で掛けた首輪は自分でしか外せないという言葉がある。悩みを解決してくれるのは宗教でも他人でもない。自分自身でしか解決できない。

今日はPHP文庫

渡辺和子「美しい人に」から

「価値にひかれる心」という章を

紹介したいと思います。


 


「神は愛です」と聖書の中の言葉をひいて説明した宣教師に、

「まあ、いやらしい」という

反応が高校生から返されたという実話があるほど、

日本語でいう「愛」は、恋愛、結婚、性行為、抱擁、接吻

といった特殊な状態、動作と結びつけて考えられている。

その一方、愛国心とか愛校心、愛社精神といった社会的な

ものとして受けとられ、個人の日常生活のすみずみに影響

を及ぼす広義な力としての愛についてはまだまだ理解が

乏しいのではないだろうか。これに比べると英語の場合、

会話の中にラヴという名詞も動詞も事なげに使われている。

アメリカ人は概してアイスクリームが好きなようだが、

” I Love icecream " と言う。

アイスクリームと恋愛中かと言えばそうではなくて、

さしずめ「大好きだ」というぐらいのところである。

「ぜひ行きたい」という強い願望なども

” I Love to go. ” であらわされる。


 


このようにわかりきった英語をあげてみたのは、

日本ではまだ、愛とか、愛するという言葉を

口にするのに妙にあらたまったり、緊張したり、

恥ずかしがったりするのに対して、英語のラヴは

日常会話の中にさり気なく使われていること、

そしてその事実が、愛というものの本質、

つまり魅力あるもの、価値あるものに

ひかれる心の傾きをあらわしていることが

言いたかったからである。

この意味で、愛はすべての人間行為の原動力であり、

どのような愛、または何への愛にひかれているかが、

その人の行為なり、人となりを説明すると言って過言ではない。

<中略>

 


「好き」だから「愛する」という人がいる。

たしかに好きなものには、嫌いなものにはない

魅力があり、価値があるはずだが、

私たちの好き嫌いをはなれて、

そのもの自体の価値があること、私たちとの

利害と無関係に、その人自身の価値があることに

気付いた時、はじめて私たちは愛というものの

本質を理解するであろう。

<中略>

聖書の中に「汝の敵を愛せよ」というキリスト教の

看板のような句があるが、これが「汝の敵を好きになれ」

におきかえられては一大事である。

「好き」というのは何となく好きなのであり、

生理的、感情的なもので、意思の力でどうにかなるものでは

ないように思う。それに比べると「愛する」ということは、

特殊な用法を除いて意思に深く関係するのである。

好きでないものを好きになることはどうしてもできないが、

好きでなくても愛せるはずである。

ただしこの場合の愛とは、心のわくわくするような、

全身全霊をゆさぶる感動を伴ったものではなく、

もっと何かしぼり出すような、または自らに言いきかせる

ようなことを必要とする愛である。

そんなものは愛ではないと言われそうだが、

愛の根本的本質、つまり、対象がもつ価値にひかれる

心の傾きというものから言えば、自分の鑑賞眼、自分との利害、

好き嫌いをはなれたところにある、そのものの価値を見出すことは

意思の問題であり、自らとの戦いともなるのである。


 


自己中心的に生きる時、周囲のものの価値も

自己とのかかわりにおいてつけられてしまう。

今日、無感動、無関心というのも、一つには

「当たり前」として物事を受けとりすぎているからで、

もっと一人一人の人間、一つ一つの事象そのものが

持っている価値に、新鮮に眼をひらくことがたいせつ

なのではなかろうか。それが「愛する心」でもあるのだ。

生きるか死ぬかの大手術をしたが人が、「生きる」という

当たり前の事に感動するのも、外国から久しぶりに戻って

日本の山の美しさに感動するのも、それまで何とも思って

いなかったものが、実は「持っていた」価値に気づき、

目覚めるからである。

今や、感動させてくれるものを求めて人は次々に

新しい刺激を追っている。

しかしながら真に求めるべきものは、

感動する心、価値を発見する心である。

まず、当たり前のこととして受けとめていることが

ほんとうに「当たり前」なのかをたずね、

それが奪われた時のことを考えて、

その価値を再認識することもできよう。

もし私たちに人生の最後の日が予告されたとしたら、

その日までの毎日の生活はすべてがいとしく、

なつかしく思えるに違いない。


 


卒業していく学生たちにとって通いなれた道が、

嫁いでいく娘にとって使いなれた我が家の部屋が、

定年となって会社を辞める人にとって永年坐った椅子が、

すべて「当たり前」と思っていたものが、

急に特別な価値をもつようになるものだ。

そして私たちの人生において。

この「卒業」であり「嫁ぐ日」であり、「定年」である日が、

明日でないと誰が断言できようか。

もしそうだとすれば、今日を愛深く生きてゆかなければならない。

その愛は、自分の好きな人だけ、自分に利益をもたらす人だけ、

または金銭、名誉、地位を約束することにだけ注がれるのではなく、

自分の一日を作りあげるすべての事、もの、人の価値を見出して

ゆくことによって育てられゆくのである。


 


僕らの周りではFaceBookやLINEなどで

懐かしい幼馴染との交流が復活している。

幼馴染はいいもんだ

なんの利害関係もない。

しかも子供の頃から素の姿を知っている、

だから何があろうが、人が何を言おうが

噂とかで人を判断するのではなく、

この僕をみて付き合ってくれる。

しかも、みんな、その眼差しが優しい。

感謝の日々である。


 


本論に戻ると、

誤解の積み重ねで、失うものもある。

人の縁を切ってしまうこともある。

でもね、縁を切って失うものは個々の二人の

関係だけではありません。

周りの信用も失うことになり、

友達に嘘をつかさせたり、

友達に余計な気をつかわせたり、

折角の和も壊していることに気付くべきです。

人を憎むこと、恨むこと、それは

自分自身の首を絞めていることに他なりません。

早く気付かないと、本当に大切なものを

失なってしまうことになります。




アメンバー募集中


読者登録してね


ペタしてね