渡辺和子「美しい人に」から
「価値にひかれる心」という章を
紹介したいと思います。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131201/21/yupirokin/2b/7b/j/t02200165_0800060012767392016.jpg?caw=800)
「神は愛です」と聖書の中の言葉をひいて説明した宣教師に、
「まあ、いやらしい」という
反応が高校生から返されたという実話があるほど、
日本語でいう「愛」は、恋愛、結婚、性行為、抱擁、接吻
といった特殊な状態、動作と結びつけて考えられている。
その一方、愛国心とか愛校心、愛社精神といった社会的な
ものとして受けとられ、個人の日常生活のすみずみに影響
を及ぼす広義な力としての愛についてはまだまだ理解が
乏しいのではないだろうか。これに比べると英語の場合、
会話の中にラヴという名詞も動詞も事なげに使われている。
アメリカ人は概してアイスクリームが好きなようだが、
” I Love icecream " と言う。
アイスクリームと恋愛中かと言えばそうではなくて、
さしずめ「大好きだ」というぐらいのところである。
「ぜひ行きたい」という強い願望なども
” I Love to go. ” であらわされる。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131201/21/yupirokin/a5/8d/j/t02200165_0800060012767392019.jpg?caw=800)
このようにわかりきった英語をあげてみたのは、
日本ではまだ、愛とか、愛するという言葉を
口にするのに妙にあらたまったり、緊張したり、
恥ずかしがったりするのに対して、英語のラヴは
日常会話の中にさり気なく使われていること、
そしてその事実が、愛というものの本質、
つまり魅力あるもの、価値あるものに
ひかれる心の傾きをあらわしていることが
言いたかったからである。
この意味で、愛はすべての人間行為の原動力であり、
どのような愛、または何への愛にひかれているかが、
その人の行為なり、人となりを説明すると言って過言ではない。
<中略>
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131201/21/yupirokin/6b/1c/j/t02200165_0800060012767392017.jpg?caw=800)
「好き」だから「愛する」という人がいる。
たしかに好きなものには、嫌いなものにはない
魅力があり、価値があるはずだが、
私たちの好き嫌いをはなれて、
そのもの自体の価値があること、私たちとの
利害と無関係に、その人自身の価値があることに
気付いた時、はじめて私たちは愛というものの
本質を理解するであろう。
<中略>
聖書の中に「汝の敵を愛せよ」というキリスト教の
看板のような句があるが、これが「汝の敵を好きになれ」
におきかえられては一大事である。
「好き」というのは何となく好きなのであり、
生理的、感情的なもので、意思の力でどうにかなるものでは
ないように思う。それに比べると「愛する」ということは、
特殊な用法を除いて意思に深く関係するのである。
好きでないものを好きになることはどうしてもできないが、
好きでなくても愛せるはずである。
ただしこの場合の愛とは、心のわくわくするような、
全身全霊をゆさぶる感動を伴ったものではなく、
もっと何かしぼり出すような、または自らに言いきかせる
ようなことを必要とする愛である。
そんなものは愛ではないと言われそうだが、
愛の根本的本質、つまり、対象がもつ価値にひかれる
心の傾きというものから言えば、自分の鑑賞眼、自分との利害、
好き嫌いをはなれたところにある、そのものの価値を見出すことは
意思の問題であり、自らとの戦いともなるのである。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131201/21/yupirokin/23/0c/j/t02200165_0800060012767392018.jpg?caw=800)
自己中心的に生きる時、周囲のものの価値も
自己とのかかわりにおいてつけられてしまう。
今日、無感動、無関心というのも、一つには
「当たり前」として物事を受けとりすぎているからで、
もっと一人一人の人間、一つ一つの事象そのものが
持っている価値に、新鮮に眼をひらくことがたいせつ
なのではなかろうか。それが「愛する心」でもあるのだ。
生きるか死ぬかの大手術をしたが人が、「生きる」という
当たり前の事に感動するのも、外国から久しぶりに戻って
日本の山の美しさに感動するのも、それまで何とも思って
いなかったものが、実は「持っていた」価値に気づき、
目覚めるからである。
今や、感動させてくれるものを求めて人は次々に
新しい刺激を追っている。
しかしながら真に求めるべきものは、
感動する心、価値を発見する心である。
まず、当たり前のこととして受けとめていることが
ほんとうに「当たり前」なのかをたずね、
それが奪われた時のことを考えて、
その価値を再認識することもできよう。
もし私たちに人生の最後の日が予告されたとしたら、
その日までの毎日の生活はすべてがいとしく、
なつかしく思えるに違いない。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131201/22/yupirokin/ec/fd/j/t02200165_0800060012767478522.jpg?caw=800)
卒業していく学生たちにとって通いなれた道が、
嫁いでいく娘にとって使いなれた我が家の部屋が、
定年となって会社を辞める人にとって永年坐った椅子が、
すべて「当たり前」と思っていたものが、
急に特別な価値をもつようになるものだ。
そして私たちの人生において。
この「卒業」であり「嫁ぐ日」であり、「定年」である日が、
明日でないと誰が断言できようか。
もしそうだとすれば、今日を愛深く生きてゆかなければならない。
その愛は、自分の好きな人だけ、自分に利益をもたらす人だけ、
または金銭、名誉、地位を約束することにだけ注がれるのではなく、
自分の一日を作りあげるすべての事、もの、人の価値を見出して
ゆくことによって育てられゆくのである。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131201/22/yupirokin/42/7f/j/t02200165_0800060012767478523.jpg?caw=800)
僕らの周りではFaceBookやLINEなどで
懐かしい幼馴染との交流が復活している。
幼馴染はいいもんだ
なんの利害関係もない。
しかも子供の頃から素の姿を知っている、
だから何があろうが、人が何を言おうが
噂とかで人を判断するのではなく、
この僕をみて付き合ってくれる。
しかも、みんな、その眼差しが優しい。
感謝の日々である。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131201/22/yupirokin/c6/90/j/t02200165_0800060012767478525.jpg?caw=800)
本論に戻ると、
誤解の積み重ねで、失うものもある。
人の縁を切ってしまうこともある。
でもね、縁を切って失うものは個々の二人の
関係だけではありません。
周りの信用も失うことになり、
友達に嘘をつかさせたり、
友達に余計な気をつかわせたり、
折角の和も壊していることに気付くべきです。
人を憎むこと、恨むこと、それは
自分自身の首を絞めていることに他なりません。
早く気付かないと、本当に大切なものを
失なってしまうことになります。
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