消えたチンチン電車 岐阜高富線(5)名鉄岐阜→山県バスセンター | ゆのブログ

消えたチンチン電車 岐阜高富線(5)名鉄岐阜→山県バスセンター

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ゆのです 岐阜バス岐阜高富線に乗車しています

(2021年10月21日撮影)

路線バスは本町1丁目に到着 名鉄岐阜市内線は「本町駅」という電停で瀬戸線にも「本町駅」があったので「岐阜市内線本町駅」と称されたと思われます

この方向より左へカーブをし、材木町へ行きます なお材木町停留所は長良橋方面のみ停車し、柳ヶ瀬方面は大仏南・妙照寺前に停車します

動画は材木町停留所を通過するところです 名鉄岐阜市内線は「材木町駅」がありました

路線バスは岐阜公園歴史博物館前停留所に停車 名鉄岐阜市内線は「公園前駅」で名鉄バスにも継承されました

長良線と言われる名鉄岐阜市内線は岐阜市街地内を走る路面電車で、全線がほぼ道路上を走る併用軌道となっていました JR東海岐阜駅北口から名鉄岐阜駅の西側を経て、徹明町 - 千手堂間は徹明通り(岐阜東西通り)、千手堂 - 忠節間は忠節橋通り、徹明町 - 長良北町間は長良橋通りを通っていました 今回は長良橋通りをスポットに当てています

岐阜市はモータリゼーションの進展と過促進から、長年市内線に対して敵対的かつ排他的な姿勢を取り続けて、岐阜市民の足を奪って行くくらい虐げられるモータリゼーション主義をとっていました 1967年(昭和42年)には市議会において路面電車廃止決議が可決されており、名鉄との協議で補償問題がまとまらず棚上げになったものの、同決議は現在でも有効となっているそうです

1961年(昭和36年)2月、名鉄は長良橋 - 養老の滝間のモノレール路線建設構想を発表し、この構想では長良橋 - 岐阜駅は市内線をモノレールに置き換えることになっていたんですが、その後進展せず、1970年(昭和45年)からは当時の上松陽助市長が岐阜市都市交通研究会に指示して、市内線全線を都市モノレールに置き換える「岐阜市モノレール」構想が進められたが、1975年(昭和50年)に凍結されています

路線バスは長良橋を通過し、長良川を渡り鵜飼屋停留所に到着しました 名鉄岐阜市内線は長良橋駅と鵜飼屋駅が存在しました

岐阜市内線においては併用軌道区間における道路幅が狭いことを理由として、通常は道路交通法で禁止されている軌道敷内の自動車の通行が許可されていました このことから「岐阜市内から路面電車を排除する」体制では無いかと思いました このため交通渋滞に巻き込まれて電車が岐阜駅前駅まで到達できず、新岐阜駅前駅で運転が打ち切られることがしばしばあったそうです また、同様の事情によって、自動車の通行の障害になる停留場の安全地帯を岐阜駅前駅をのぞいて設置できず、乗降客は常に自動車との接触事故の危険性にさらされていました しかし、交通行政を管轄する岐阜県警は安全地帯設置、軌道敷内自動車通行禁止、いずれに対しても消極的であり、これらすら行わず怠慢行為をしたように見受けられました 安全地帯を設置した場合、交通量の多い幹線道路である国道157号などを路線バスやトラックなどの大型車両の通行が困難となるためとされるそうですが、これではモータリゼーション主義としか思えない政策と言えます

長良北町駅からは高富線、千手堂駅からは鏡島線が延びていたんですが、いずれも1960年代に廃止されています

1988年(昭和63年)までは、今回乗車した岐阜バス岐阜高富線は岐阜市内線の一部として徹明町駅から長良橋通りを北上し長良北町駅に至る通称長良線が走っていたんですが(本来、岐阜市内線は岐阜駅前 - 長良北町間が本線で、これに対し徹明町 - 忠節間を忠節支線という)、ぎふ中部未来博開催の際に他の交通の障害になるという理由で同年廃止されたものであるが、この点においても岐阜市ならびに岐阜県警の行政におけるモータリゼーション主義の姿勢は一貫していました 長良線の廃止で岐阜市政と岐阜県警が岐阜市民の足を奪う屈辱を受けました

(Wikipediaより引用)

路線バスは長良北町停留所に到着 この区間が名鉄岐阜市内線の区間でこの駅からは高富線となります

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