名鉄電車のターミナル駅だった押切町駅跡 | ゆのブログ

名鉄電車のターミナル駅だった押切町駅跡

ゆのです 今回は鉄道の史跡巡りです

(2021年3月3日撮影)こちらは名古屋市西区押切町です

かつては鴛鴦(おしどり)の生息地であり、鴛鴦喜里(おしきり)と表記したことに由来するとされるが未詳だそうです

余計なことを言えば「おしどり夫婦」のその6割くらいは「仮面夫婦」か「離婚寸前の夫婦」と言われているのでは無いかと思います

名古屋市西区南部に位置し、東は花の木一丁目・浅間二丁目、南は菊井一丁目、北は天神山町に接します

現在では国道22号線と菊井通(名古屋市道東志賀町線 )と交差する交差点です

この西区役所庁舎、西消防署押切出張所、西区役所および西保健所の合同庁舎の敷地だった所が押切町駅でした

その西区合同庁舎は現在は同区花の木に移転されましたが、押切町にあった時と異なり地下鉄鶴舞線浄心駅から約4分の最寄り駅です

新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅)の開業前は名古屋市内のターミナル駅の一つでした

押切町駅があった当時は現在の犬山線岩倉駅から押切町駅までの区間と、押切町駅から柳橋駅までの市電に直通する区間も一宮線に含まれ、押切町駅が廃止された時に一宮線岩倉駅以南が犬山線に編入されました このため、押切町駅の位置は後の一宮線(東一宮駅 - 岩倉駅間)廃止時においては、一宮線上になく遠く離れた場所となっていたそうです

名古屋鉄道の前身となる名古屋電気鉄道は、もともと名古屋市内における路面電車(市内線、市電)を運営していた会社でありましたが、後にアメリカで流行していたインターアーバンを視察し、それを規範にして郡部線と呼ばれる郊外路線を建設することにしました(後の名古屋本線、津島線、一宮線、犬山線など)この時、郡部線電車のターミナル駅として建設されたのがこの押切町駅でありました 後に名古屋市西区総合庁舎が置かれた場所で、市内線の北端に位置していました

しかし、市街地へ行くには市内線へ乗り換える必要があって、不便でありました 名古屋電気鉄道ではこれを解消しようと、インターアーバンの手法に倣って郡部線の電車を市内線に乗り入れさせるようにし、国鉄名古屋駅近くの柳橋交差点の辺りに柳橋駅を設け、ここを新たな発着駅にさせんですが同駅は敷地が狭く、線路容量に余裕がなかったこともあって、一部の電車は押切町駅発着で残されました

その後、名古屋電気鉄道は市内線を名古屋市へ移管(名古屋市電となる)し、郡部線を新設会社の(旧)名古屋鉄道へ移管して解散しました しかしながら、市内線の市営化後も柳橋駅までの乗り入れは継続されました

(旧)名古屋鉄道が名岐鉄道になった後の1935年(昭和10年)に名岐線(現在の名古屋本線枇杷島分岐点以北)が開業し、新製車のデボ800形(後のモ800形初代)を用いて特急・急行電車の運転が開始されたんですが、これは車体規格が大型であって市電に乗り入れるのに適さなかったことから、押切町駅始発となりました そのため、柳橋駅からは津島・犬山方面の急行・普通電車で押切町駅まで来て、特急電車に数分で乗り継げるようなダイヤを組んでいたそうです

名岐線開業まもなく、名岐鉄道は愛知電気鉄道(愛電)と合併し、現在の名古屋鉄道が発足します 名鉄では、愛電が有していた神宮前駅をターミナルにして名古屋南東部へ向かう路線(名古屋本線神宮前以東・常滑線など)と、名岐鉄道が有していた路線の直通運転を目論むようになり、東海道本線に並行して枇杷島橋駅 - 新名古屋駅(後の名鉄名古屋駅) - 神宮前間に新線を敷設することにしました

その過程で、枇杷島橋駅 - 新名古屋駅間が1941年(昭和16年)に開業したため、押切町駅や柳橋駅、そして押切町駅 - 東枇杷島駅間にあった平野町駅は廃止されました

(Wikipediaより引用)

その押切町駅の詳しい配線図をWikipediaの画像を用いて確認いただければと思います

(配線図は「沢田幸雄 「廃止された線路を訪ねて 押切町 - 枇杷島橋間と柳橋乗入れ」(『鉄道ピクトリアル No.473 1986年12月増刊号』、p.103,電気車研究会、1986年」となります)

この角地からするとバスや市電の接続をしていた所の名残が見えますね

今回は鉄道がかつてあった押切町駅のお話でした 史跡巡りですが、今にとって「鉄道が通っていた」事を思えばと思います