感情 | 思いの坩堝

思いの坩堝

モノカキになると誓った元単身赴任会社員の文章修行場です!

感情とはなにか。

言葉よりずっと先にある、絶えず浮かび上がっては消えてしまう泡のようなもの。

あるいは人が心の内で育てている、双子の兄弟のその片割れ。残りの一方を「理性」といい、似て非なる存在に動物の「本能」がある。彼は中々に厄介な存在で、人を死の淵から救い出すこともあれば、逆に破滅へと追いやることすらある。つまりは彼は気まぐれで、とても飼い慣らすことなどできやしない。彼は人をして行動に駆り立てる強力な原動力になりうるが、理性と相談せずに彼に踊らされた多くの人は、後に深い後悔に苛まれることになる。その後悔自体も彼のひとつの形ではあるのだが。
ただ一つ確実に言えるのは、彼の存在が、善かれ悪しかれ人生という名のドラマに、鮮やかな彩りを添えてくれるということだ。

君が僕をそんなふうにさっきから頬づえついて見ているものだから、僕の心臓はずっとそわそわと落ち着かず早くなったり遅くなったりいつものリズムを忘れている。僕が何かしたっていうのか、知らずに君を傷つけた、あるいは君を貶めた、そんなことなどあるはずがない。だって僕らはついさっき出会ったばかりなんだから。

終電の車両の中は、酔っ払いとくたびれたサラリーマン、自宅か学食と間違えて大騒ぎをしている学生達くらいしか見当たらない。
一人になりたい僕は、扉に寄りかかりぼんやり窓の外を眺めていた。
そこで君を見つけたんだ。

君は線路に隣接して建てられたマンションの一室の開け放された窓の向こうで頬づえついて僕を見ていた。

君は屋上の上で口紅をつけて艶然と微笑みながら僕を見ていた。

君は車の中で誰かといちゃつきながら不意に僕を見詰めた。

君は英会話スクールやダンススクールの生徒募集の広告の中で、にこにこ微笑みながら僕を見ていた。

君がいつもつぶやく声が僕にははっきり聞こえた。

「もう、やめちゃえば」

だから僕はこの電車に乗っているんだ。
場所は随分見つけるまで時間がかかったけどもう決めてある。
小高い丘にあって街全体を見渡せるマンション。
竣工当時こそ先進的だった造りのその建物は、
人と同じでが時間の経過と共にあちこち傷み老いさらばえて
オートロックなんて望むべくもない。
誰でも屋上まで達することが出来る。

あそこで僕は楽になる。
もう何もかも終わらせるんだ。
この世界は僕にとって、あまりに過酷で続けていく意味なんてこれっぽっちも見つけられない。

ますます決心を強くしていく僕の目を見詰める彼女の表情が、変わってきたことに気づいたのは、
そのマンションの最寄の駅に到着したところだった。

それは、同じクラスの彼女らの顔になり、姉の顔になり、母親の顔になり、祖母の顔になった。

皆が一様に怒っているような切なそうな哀しい顔をしていた。

「生きて」

僕の頬を涙が一筋流れた。


これを読んだ君が胸に抱く、それこそが彼「感情」だ。