江川英龍は江戸末期の伊豆・韮山代官。
管轄領域は伊豆だけでなく相模・武蔵・甲斐・駿河
の一部にまで広がっていた。

鎖国が続く中で、イギリスやアメリカ、ロシアなど
の外国船が出没する時代。英龍は、海防に深い知識
を有する幕臣として活躍した。

江戸湾に侵入した異国船に対抗するための砲台であ
るお台場を築いたのは英龍である。

高島秋帆から近代砲術を学び、江川塾を開いてこれ
を広めた。佐久間象山、橋本左内、桂小五郎、榎本
武揚らも英龍の教えを受けている。

「回れ右」「捧げ銃」などの日本語の号令を作った
のも英龍である。軍行の携帯用食料として乾パン相
当のものを焼いており、パン祖とも呼ばれている。

国産の大砲を作るために反射炉も建築した。
韮山に残る反射炉は英龍が建設に着手したものであ
る。(完成は英龍の死後)

剣の修行もし、和歌や絵画にも才能を発揮した。

代官から幕府の勘定吟味役に引き立てられ、
幕府の勘定方の最高位である勘定奉行にもなる見込
みであったが、残念なことに昇進直前に病死してし
まった。ペリーが再来を告げて離日してから1年た
足らずの間に、台場の建設や様式戦の建造、反射炉
の造営、陸軍の整備、技術関連洋書の翻訳など激務
が続いたことが病没の原因ともいわれている。

英龍の才能と活躍は、もっと知られてもよいと思う。