永平寺にいきました。

 
{905D655D-E719-4345-96EA-BDC959047424}
永平寺で法要のあとに、高僧らしきかたからのお話がありました。
柔らかく静かに他者を制することができるような風貌、雰囲気。
お寺でよくきく説教っぽい話しかと思いきや、永平寺の修行僧の暮らしについて。
 
今年の3月に雪の降るなか50数名の新しい修行僧が永平寺の門をくぐり、2か月の研修?を経て本格的な修行がはじまり、そしてこのたび一人の脱落者もなく夏の修行が終了したそうです。
 
現在永平寺には155名の修行僧がおり、それ以外の僧40余名と合わせて全部で200名ほどが寝食をともにしているそうです。
一番下っ端の修行僧にあてがわれるスペースは畳一畳、布団をタテに折ってその間に柏餅の餡のようにくるまって寝、朝は3時半におき即座禅?読経?、2時間後に朝食。
朝食は365日玄米粥と梅干し一個を1時間かけてただひたすらに食べるのだそうです。
 
読経、座禅、お勤め、掃除、食事、あてがわれた仕事、とにかくただひたすらに行うこと。それが、永平寺の修行の本質(のひとつ)のようです。
 
私たちがただひたすらになにかをするときに、傍に仏が宿るのだそうです。
仏が宿るとは、努力が報われるとか報われないとか、やったら得するとか得しなかったとか、そういう次元を超えたもの、と私は理解しました。
 
ただひたすらに。これが大切。
 
高僧のお話、以上。
短いお話ながら、かなりインパクトがありました。
私がつべこべ言わずに、ただひたすらにやってることってなんだろう?
仕事。あーだこーだいっている。
家事。つべこべいう以前に手抜きしている。
ただひたすらにネットサーフィン。これはやってるけど、仏は宿らなそう。
ただひたすらに車の運転はしている。真剣そのものなんだけど、ついついストレスから文句〜罵詈雑言その他が口をついてでてしまう。仏は多分、宿らない。
仏検直前のフランス語。無心だった。確かに、ただひたすらにやっていた。。
けど、仏が宿るような静かな水面の心ではなかった。。努力が報われてほしいとか、合格したいとかいう俗物的大渦、業火の中にいました。
 
ただひたすらに、をちょっと意識してみよう。
以上、私が永平寺で得たものでした。
 
{E0357EF1-E6E0-48B5-9913-409177C9677F}