坂本龍馬LOVEだった高校生時代の私を思い出す | 浮気もレスも解決! アラフォー妻のための 夫婦仲がすごく良くなるカウンセリング

坂本龍馬LOVEだった高校生時代の私を思い出す

●坂本龍馬LOVEだった、生きづらかった高校生の私を思い出す


こんにちは、八馬ゆみ、ゆっちです。


実は私、高校生の頃は、大の坂本龍馬ファン!



きっかけはこの本。

 

本好きの父(高校では図書館部で、当時は全国大会もあったとか?)のおかげで、壁一面が本棚になっているほどに、我が実家にはたくさんの本があったのでした。


司馬遼太郎さんの本は全部揃っていて、その中でも、この「竜馬がいく」が、私のお気に入り。


面白くて読むのが辞められず、当時は寝不足の状態になってました。


それが続いて、テニス部を辞めたほど。(笑)


そして「龍馬研究のため、高知大学に行こうか」と一瞬考えたりもしたのでした。


それほどの竜馬ファンだった私ですが、龍馬の有名な「いろは丸事件」の交渉の舞台が、この鞆の地であったことは、す〜っかりす〜っかり抜け落ちていたのでした。


いろは丸沈没事件とは、1867年江戸末期、紀州藩の大型蒸気船が、龍馬の小さな蒸気船いろは丸と瀬戸内海で起した衝突事故が発端となった事件。


龍馬が万国公法を盾に、土佐藩や薩摩藩、世論も味方にして、粘り強い交渉の末、紀州藩から莫大な損害賠償を勝ち取ったのです。


その最初の交渉場所が、事故現場近くのこの鞆の港だったわけ。


幕末とはいえ、まだ江戸時代。


有名人とはいえ、脱藩浪人が、大藩に「そちらが悪いから、損害賠償を払え」と訴えたのですから、そりゃすごいこと!


当然命を狙われますので、こんなふうに屋根裏の隠し部屋に隠れていたそう。



↑これは、鞆の浦にある「いろは丸展示館」に再現された部屋ですが、実は、実際のお部屋も残ってます


龍馬が宿にしていた桝屋清右衛門宅。当時の豪商です。



ここに龍馬は「才谷梅太郎」という偽名で宿泊してました。

この家には、ずっと「龍馬の隠し部屋がある」と伝承されていたそうですが、部屋が見つかったのは、龍馬の死後100年以上後の1989年。


天井板が一箇所だけ外れる箇所があり、



その奥にこの屋根裏部屋が!



部屋の真ん中の文机には、竜馬が、京都の寺田屋の女将あてに書いた手紙の複製が置かれてます。



「(事故処理で予定が変更になり)京都にいけなくなったけど、心配するな」という意味のお手紙です。

わ〜、ここに竜馬がいたんだな〜と、パチリ。


この事件の7か月後、龍馬は京都で暗殺されます。

享年31歳。ううっ、若い(涙)。龍馬様〜。

しかし、私が竜馬大好き女子高校生のころ、ここに来ていたら、どんなにか幸せだったでしょうか?


当時の私の高校生視野では、「鞆の浦に行ってみたい」とは、思いもしなかったです。


時間はあってもお金はなかったし。


自分が「行けるとは思えない箱の中」に住んでいたと思う。


自由に憧れていたからこそ、自由な龍馬があれほど好きだったのかな。


高校時代の私は、アラカンの私に比べ、50倍くらい生きにくかったなあ。


でも、当時の私は、そんな箱の中に息苦しく住んでいたとは、気づかなくて、それが普通だと思っていました。


当時は、朝、目が覚めると「なんで、私は生きてるんだろう」と、ハラハラ涙が溢れてきたほど、生きづらさを抱えていたんだよ〜。


ぶっちゃけ、受験勉強のしすぎだっただけですが、「優秀でなければならない」「良い大学に受からねばならない」に囚われすぎていたんですね。


でも、まだ17年しか生きていない、幼い高校生の私には、「受験勉強はほどほどに」という選択肢がありませんでした。


苦しかったあの頃の私、ハグハグぎゅ〜です。


そして、今はどうだろう?


今は「とんでもなく、生きやすく幸せ」「愛され楽ちんワールド」と思っているけど、もしかしたら、まだ、透明な箱の中にいるのかもしれない。


「生きやすい」とか「愛され楽ちんワールド」も、もしかすると「制限」かもしれない。


安全で、居心地の良い幸せな制限ではあるけれど。


なんか、60代からは、想定外のコンセプトやライフスタイルがやってきそうな気もしています。


龍馬のゆかりの地で、久しぶりに高校時代の生きづらさを思い出し、今の幸せをありがたく感じるとともに、この気持ちとダー様を「安全基地」として、さらなる先に翔び立てそうな気がしてきました。


龍馬&ダー様、ありがと〜。


ちなみに鞆の浦には「いろは丸」という連絡船があります。



もちろん、乗ってみました!



鞆の浦は一泊だけ。


2日目は、尾道に向かいます。


続く。