ヨーガ健康科学研究会 佐竹昭治
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§ その四 二才から六才
二才 二月十五日、お釈迦さま入滅(亡くなること)の朝、太子は東に向かって手を合わせ、「南無仏」ととなえられました。
その時の姿は、頭をまるめて、上半身裸で腰から下に赤い裳をつけていたといいます。
三才 敏達天皇三年三月、桃の花のきれいに咲いた朝、父君と母妃は太子をつれて後園で遊ばれました。その時、父君が松の枝と桃の花を手にとって、太子に、「太子よ、どちらがよいかな。」とたずねられました。
すると太子は松の枝をとって、「わたしは、松が好きです。」と答えました。父君は、太子は子どもだから、きっときれいな桃の花がよいというだろうと考えていましたから、太子の答えにおどろかれて、「太子、どうして松がよいのじゃ。」とたずねられました。太子は、「はい、桃の花の美しいのはわずかの間です。けれど松の木は万年の間枯れない木です。」と答えました。
四才 敏達天皇四年正月、御殿で皇子たちの立ち騒ぐ、いさかいの声があまりにさわがしかったので、父君が鞭を持って皇子たちを追われました。皇子たちは、父君の姿をみると、みんな恐れて逃げてしまいました。ところが太子は逃げません。太子は衣を脱いで、父君のまえにでました。父君は、「おまえはどうして逃げないのだ。」と太子にたずねられました。太子は、「はしごをかけて天に登ることも、穴をほって地にかくれることもできません。どこへ逃げても、おとうさまはみつけておしまいになるでしょう。だから、わたしは鞭をうけます。」と答えると、父君は太子をだきあげて、ほおずりをされました。
五才 敏達天皇五年三月、天皇は豊御食炊屋姫尊(のちの推古天皇)を立てて、皇后とされました。その“起伏の儀”をされた太子は、まるで成人のように立派でした。
八月からは習字を始められて、毎日数千字を書かれたそうです。
六才 敏達天皇六年十月、大別王が百済からお経の本や、律師、禅師、比丘尼をつれて帰国しました。太子は、天皇に自分の前生について話し、このお経の本を見たいと願われました。
§ その五 七才から十五才
七才 敏達天皇七年の春から冬にかけて、太子は百済から伝えられたお経の本を毎日十二巻ずつ読みました。
そして、天皇に、毎月八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日を“殺生禁断の日”(いきものを殺してはいけない日)と、定めてくださいとお願いしました。
天皇は、それはよいことだと大変喜ばれて、天下に勅(天皇のことば)をくだされ、月に六日の殺生を禁じられました。
十一才 敏達天皇十一年二月のある日、太子は三十六人の子どもたちと、後園で遊んでいました。子どもたちを前や後、右や左に分けて、いちどにそれぞれ思い思いの言葉をかけるよういいました。子どもたちは、それぞれ勝手にいろんなことを言いましたが、これを静かに聞いていた太子は一人ずつの言葉を復唱して、一語も聞き落しませんでした。
十二才 敏達天皇十二年七月、百済から火葦北国造の子、日羅が帰国しました。日羅の噂を耳にした太子は、天皇に日羅に会わせてほしいと願い出ましたが許されません。そこで、馬飼いの姿になって、日羅の住む難波の館に出かけました。馬飼いたちにまじって日羅をみていた太子に、日羅はすぐに気づき、「あの子どもは、国を治める人の相がみえる。」といって、太子をまねきました。
こうして、二人は百済の文化や、国政について話しあいました。そしてこの時、太子は日羅の命運の短いことを予言され、はたしてこの年の、十二月三十日に日羅は新羅人に暗殺されたのでした。
十四才 敏達天皇十四年二月、大臣蘇我馬子は、豊浦の大野の丘に仏舎利(お釈迦さまの遺骨)をおさめた五重の塔を建てました。仏塔が建つととたんに、天然痘が流行しはじめたので、物部守屋や中臣勝海らは、「これこそ、大臣が仏教を祭ったためです。国の神々のいかりに違いありません。」と天皇に申し出て、仏塔を焼き仏像を難波の堀江にすててしまいました。さらに、善信尼ら三人の尼たちは、海石榴市に監禁されてしまいました。当時の市場は、産物交換の場所であるとともに、罪人の処刑の場所でもあったのです。
六月、蘇我馬子は病の床についてしまい、天皇に仏の三宝(仏、仏の教え、教えを伝える法師)にたよりたいことを願い出て、天皇も三人の尼を馬子にかえし、馬子にだけ仏教を信じることを許されました。
十五才 用明天皇元年八月、敏達天皇がお亡くなりになり、九月、太子の父君が用明天皇として即位、母妃は皇后になられました。用明天皇は、敏達天皇の異母弟で、三人目の弟にあたります。
§ その六 十六才から二十一才
十六才 用明天皇二年四月、用明天皇は病にかかられ、太子は夜もねむらず看病しました。天皇も仏に帰依して病気を治そうと決意されましたが、物部守屋や中臣勝海たちは、我国の神々にそむいて他国の仏を信じることに、はげしく反対しました。物部氏たちは、「天皇が病になられたのも、他国の仏を我国に持ち込み容認したことを、神々がおいかりになっているのだ。」というのです。
天皇の希望により、豊国法師が宮廷によばれました。けれども、太子や法師の願いもむ