エホバの証人の矛盾している教え
その①
暴力行為を否定しながら、子どもに対する躾として暴力を振う
暴力を憎む神を崇拝しているはずのJWですが、子どもに懲らしめの鞭という暴力を推奨してきました。
『あなたの家族生活を幸福なものにする』の本の中にも、はっきりと『懲らしめの鞭として、お尻を叩くという体罰は子どもの命を救うものとなります。』と書かれています。
これは暴力ではないんですか?
その②
虐待やDVを否定しながら、家庭内暴力を受けた事を迫害に耐えたと美化している
集会や大会で、未信者の配偶者から迫害されているけど、その迫害に耐え、エホバのために辛い状況を乗り越えたという経験やインタビューを聞いたことがあるでしょう。
さらに、迫害される事は、終わりの日が近い証拠なので、良い事のように教えています。
詳しくはコチラ→『迫害されても大丈夫』
え?終わりの時だから、迫害(家庭内暴力)される?されて当たり前?耐えることは美徳?
いやいやいや、どんな理由があろうと、家庭内で殴る蹴る、怒鳴る、物を投げつける…などの暴力行為は犯罪です。暴力行為を美化してどうするんですか?通報しましょう。
私の父は未信者でしたので「迫害はない?お父さんは反対してこない?」など聞かれることがありましたが、すごく嫌でした。私の父がそんな事してくるはずがありません。そもそも温和で優しいマイペースな性格の父は、誰かに手を上げるような人ではないんです。一方、私に手を上げてきたのは、自称唯一真の神を崇拝し、エホバの証人と聖書を学んでいた母だけでした。
その③
偏見を否定しながら、善悪をJWか、そうでないかで分ける
『世の人』という言い方にも表れているように、JWは、エホバの証人か、そうでないかで人々を分けます。エホバの証人は真の宗教、清い民、真のクリスチャン、真の組織、神の組織と名乗り、その他の宗教は、サタンの偽りの宗教、エホバの証人以外の人達を、サタンの世に染まっている世の人と蔑みます。
エホバの証人として聖書を学んでいるだけで『善』で、学ばないだけで『悪』とみなして良いのでしょうか?その人自身の行いを見て判断すべきではないですか?
その④
幸せな家庭を築く方法などと教えておきながら、何よりエホバが第一
ものみの塔2017年10月号の『真理は「平和ではなく,剣を」もたらす』の中では『サタンは家族に対する愛情を利用して神への忠誠を打ち砕こうとする』『未信者の家族と意見がぶつかることもあるでしょう。そのような時は気がとがめるかもしれません。……それでも,エホバへの忠節を第一にすることが大切』と書かれています。
さらに、家族が排斥された場合も同じく、クリスチャン活動を続け、エホバの取り決めに従い『排斥や断絶をした家族との交友をやめ、電話や手紙やメールやソーシャルメディアで不必要に接触すべきではないという命令に従います。』とあります。
これで幸せな家庭を築けますか?
その⑤
JWは自由を愛する人々と言いながら、全く自由が無い
1992年1月15日号のものみの塔では、子どもだった私も学校を休んで出席させられていた『自由を愛する人々』地域大会について書かれています。
以下抜粋↓
『エホバの証人は自由を愛し,常に自由であることを願っています。…… クリスチャンの自由は,自分のしたいことをする自由ではなく,エホバのご意志を行なうための自由です。クリスチャンは,自由を乱用するのではなく,十分に活用することを願っています。……エホバの民は真理がもたらした自由を大切にするが,それには責任も伴うことを忘れてはならない。……「わたしたちは各々,神に対して自分の言い開きをすることになる」という点を決して忘れてはなりません。』
は?
これのどこが自由なんですか?
本当に自由だと言うのなら、エホバの証人になるのも自由、辞めるのも自由のはずですよね?私には、大会には出席しないで学校へ行くという選択肢はありませんでしたが、それで自由なんですか?
この矛盾、当人たちは、一体いつになったら気付くのでしょうか?