瀬田の唐橋
滋賀県大津市瀬田27
忍熊王、逃無所入、則喚五十狹茅宿禰、而歌之曰、
伊裝阿藝 伊佐智須區禰 多摩枳波屢 于知能阿曾餓 勾夫菟智能 伊多氐於破孺破 珥倍廼利能 介豆岐齊奈
則共沈瀬田濟而死之。
〈現代語訳〉
忍熊王は逃げるところがなく、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。
いざ 五十狭茅宿禰、内朝臣の頭槌によって痛手を負わされるより、鳰鳥のように水に潜って死のう。
そうして共に瀬田の渡しで死んだ。
(『日本書紀』)
日本武尊が船団を従えて海路をたどったという故事に基づいて行われる建部大社の夏祭り「船幸祭」では、神輿を乗せた船団が瀬田川を行き交い、唐橋に近付くころになると夜空に花火が打ち上げられる。
日本武尊だし海路をたどった故事に基づくってことだから関係ないかもしれないけれど、これを見ていると神功皇后の時代もやっぱり船でこの川を移動していたのではないかという気になる。
船で高穴穂に向かうつもりだったのかな、と。
そして忍熊王、入水自殺したふりして実は別の船で敦賀方面に逃げていたのではないかな。
そんな風に思う。
五十狭茅宿禰は五十狭茅宿禰で生きていて、忍熊王とは逆方向に逃げて、忍熊王の死を偽造した。
各地の伝承を繋げて、そんな風に想像するのであった。