広開土王碑(好太王碑)について | 筑前由紀のプチトリップ

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広開土王碑(こうかいどおうひ)
高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を功績を称えるために、次の長寿王が414年に建てた石碑。好太王碑(こうたいおうひ)とも言われる。
現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する。

4世紀末から5世紀初頭の朝鮮半島の高句麗の歴史だけでなく、三国時代の朝鮮の国際関係、さらに日本(倭)との関係などにも記述が及ぶとされ、古代の朝鮮の歴史を知る上で貴重な一次史料。


※写真は熊本県立装飾古墳館のもの



碑文は三段からなっている。

①高句麗の建国伝承・建碑の由来


②広開土王の業績:領土を拡大した業績(広開土という王名も、広大な領土を開いた王の意味)が讃美されている。倭について記載ありその内容以下。

396年、水軍を率いて百済を討ち、治世最大の戦果を挙げた。その理由は百済と新羅はもと高句麗に隷属し朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済などをうち破って臣下としたためである。王は百済の多くの城を占領したが、なおも抵抗が続いたので、漢江を渡り王城を攻めた。百済王は多くの貢物をだし、(高句麗の)家臣になることを誓ったので王の弟などを人質として凱旋した。
398年に粛清に出兵し服属させた。
翌年、百済は前年の誓いを破って倭と和通したので、王は百済を討つため平壌にむかった。そのとき新羅が「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下にした。救援を願いたい」と願い出た。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、それを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆を突いて新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

③好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定

 

 

 

  広開土王碑から読める朝鮮半島における倭の動き

 

391年:倭が海を渡り百済などをうち破って臣下とした。

→396年:高句麗が百済を討つ。

399年:百済が倭と和通した。/倭が新羅に侵入し、新羅王を倭の臣下にした。

→400年に高句麗が新羅に軍を派遣し、倭軍が退却。

404年:倭が帯方地方(古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡)に侵入した。

→同年:高句麗が倭を討って大敗させた。

 

 

 

  今後検証していきたいこと

・仲哀天皇の時代に蚕種を持ってきて帰化した功満王は、高句麗の支配から逃げて来た百済の王だったのでは?

・古事記・日本書紀に出てくる百済王「照古王」と、肖古王(200年頃)、近肖古王(350年頃)。

・百済が倭に朝貢した際に献上したという七支刀。

 

※神功皇后が卑弥呼(240年前後)の時代の人なのか、400年前後の人物なのか、はたまたもっと違う時代の人物なのか…。

 

 

 

  気になる作品

・百済の王 クンチョゴワン

https://www.kbsworld.ne.jp/program/detail?prSn=361

 

4世紀、百済の最盛期を築いた第13代王・近肖古王の生涯を描いた物語。番組冒頭、次回予告の冒頭には百済から日本へ贈られた七支刀が描かれている。 百済の王子が倭国の神功皇后と結婚し倭国を平定する描写があるが、史実ではなく創作である。(wikipedia)