【この記事の概要】 現在、私は、1977年10月に部落差別の問題を正面から取り上げることをテーマとして創刊された文芸雑誌『革』(当初の編集委員は野間宏、井上光晴、竹内泰宏、土方鐵、杉浦明平、川元祥一など)に、2020年9月から「解放文学の軌跡」という評論を連載しており、2024年4月5日発行の『革』第40号には「解放文学の軌跡(第8回)」の「野間宏と被差別部落―『青年の環』を中心に」が掲載されています。これまで紹介してきたブログの記事の多くは、この連載の下書きとして書いたもので、今後は、『革』連載の批評をブログで公開していく予定です。

今回は、「解放文学の軌跡」の第6回にあたる「部落問題文学の前進と停滞―伊藤野枝、西光万吉、島木健作、梅川文男の作品から―」(『革』第38号、2023年3月)の第3回目を掲載します。この評論の引用・転載は自由ですが、必ず出典を明記してください。

 なお、文芸誌『革』は、現在では部落差別のみならず、性的マイノリティ、災害避難民等々、さまざまな社会的排除の対象となっている人々や日本社会の差別構造等の問題を、小説、ルポルタージュ、評論、詩、俳句で表現した作品を掲載しています。申込先は「〒651―2202 神戸市西区押部谷町西盛584―1 『革の会』事務局 善野烺」です。

 

被差別部落民衆の世界

 全国水平社創立大会の「宣言」は、祖先からの血の継承を中心とする考え方や女性の不在、植民地主義への無自覚等の限界があったが、自己を貶められた存在に仕立て上げた歴史をわがものとして受け入れ、自己の内部にある集団的記憶や苦難の歴史を、アイデンティティの回復や集団形成の積極的契機として再評価し、その上に立って他者を排除しない部落民の誇りと新たな連帯の可能性を示そうとしたものであった(13)。このような「宣言」の精神を礎にして、水平社運動は部落民衆と結合して燎原の火のように各地に広がっていった。そして、部落民衆の意識が前進するにつれて、文学の表現は機関誌『水平』の中の作品で描かれていたような叫びや告発を越えて、闘争の文学の段階へと進みはじめた。1923年10月に西光万吉が中外日報社から刊行した『戯曲二編 毗瑠璃王 浄火』(二刷以降は『浄火』と改題)のなかの一編、『浄火』がそれである。

 この本は、全国水平社第2回大会(1923.3.2~3)の壇上における西光の舌禍事件(奈良県の大正小学校差別事件の糾弾で逮捕された木村京太郎らを「名誉ある囚人、われらの尊い犠牲者」と紹介したことが「犯罪人」を賞賛したとして治安警察法違反で罰金50円を科せられた事件)の罰金をつくりだすために、友人の荒木素風、三浦大我(参玄洞)らの助力で刊行されたものであった(14)。戯曲という形式を採っているのは、西光が民衆劇学校(1923年開設、沢田正二郎を校長、倉橋仙太郎を主宰とする演劇塾)や新民衆劇団(沢正、倉橋を指導者とする劇団)の旗揚げ公演用の脚本に「天誅組」を書くなどしたことからすると(15)、その公演用として考えていたのかも知れない。

 さて、この1場1幕の現代劇『浄火』の舞台は「大都市に近く、水平社のある大部落」となっているが、大阪府泉北郡舳松村のことである。舳松村について、木村京太郎は『水平社運動の思い出』(部落問題研究所、1975年)で「舳松村は当時すでに戸数800、人口3500人という大部落で、大正7年8月の米騒動には多ぜいのギセイ者をだしているが、それだけ貧乏人が多い。そこには大きな屠場(俗称とんこつ)があって若者の気性も荒かった。」(16)と語っている。大阪府救済課「部落台帳」(17)によると、1917年当時、戸数537戸・人口2507人を数える大部落で、職業を見ると下駄靴直が190戸(35.4%)ときわだって多く、これに下駄表職94戸(17.5%)、農業60戸(11.2%)と続き、このほかにも、作品にも登場する「屠夫」が5戸いる。また、家計を助けるために子守などの仕事に就いていたことにより、半数以上の子どもが不就学であった。

 舳松村では、1922年8月5日の大阪府水平社結成後間もない8月20日に、地元の明願寺で「舳松村水平社創立演説会」が開かれているが(18)、その前の4月23日にも、全国水平社の本部員・泉野利喜蔵が出身地の舳松村で「部落改善促進運動演説会」名義をもって水平社宣伝演説会を開催している。泉野と西光とは全国水平社創立の本部役員として各地の水平社創立に一緒に東奔西走し、「常に肝胆相照して水平運動を献身的に指導した名コンビであった」(19)。こうした泉野との繋がりに加えて、「当時の本部活動家は、運動のため親譲りの財産を費い果し、親類、友人に迷惑をかけたりしながら東奔西走していましたが、空き腹で、電車賃がないために、二、三里の道を徒歩で動き廻るのは普通のことでした。それで、とにかく舳松へ来れば寝るところと、食うものもあり、帰りの電車賃を貰える事も出来たものです。」(20)という証言に示されているように、舳松村が「アジール(避難所)」でもあったことから、西光は1923年6月頃から活動の拠点を舳松に定め、「舳松居住は昭和3年の三・一五検挙時までつづき、同『身上調書』の住所は堺市舳松町舳松小学校前」(21)となっている。したがって、1923年7、8月頃に執筆されたと推定されている『浄火』にも、その当時の舳松村の生活、仕事、運動の様子が巧みに織り込まれており、作品の厚みを増している。以下に、それらの解説も交えながら、作品を見てみることにする。『浄火』は、次のような場面から始まる。

 

   時はこの大部落に水平社が結成された後のある夏の夜。所は部落で酒、煙草、菓子等を売る亀造の店とその隣の甚 

  三の家の表。軒にすえられた縁台で将棋をさす人とそれを見学している人がおり、その中には男のように短い襦袢を

  来て長靴をはき、腰の皮帯に屠牛場で用いる大きなナイフをさした“おまつ”がいる。そして、その縁台の前では、は

  るかに聞こえる盆踊りの太鼓の音に合わせて、「おどれ、おどれエと、三十までおおどれ。三十すぎたら、こおがお

  とる。」「どんどん、は、どんどん、は、どん。かっからかっかっか、いや、は」と、青年と子どもの3人が歌い踊

  っている。

 

 先の「部落台帳」で見たように、舳松村では「下駄直し」の仕事が多かった。1912年に舳松村に生れ、「表をあむ」などの詩で知られる阪本ニシ子は、「昔は下駄直し。下駄の歯入れたり、鼻緒すげたり、あんな仕事やねん。男の人はその仕事行くわけや。行っても、雨降ったら休みやな、人の軒で仕事さしてもらうから。雨降ったら休みになるし、行ったかて仕事あるやらないやらわからへん。」「仕事に行ったかて仕事ない。それにつけて、みんな昼からうちの方、将棋ようはやった。あの阪田三吉さんもそうだんねん。あれ、見て習いはってんで。あの人も学校へ行ってしまへん。」、「盆いうたら、盆おどりや。うちらのとこではな、いまみたいに、あんなん、ヤグラくんで、まわりをぐるっとまわるおどりやなかった。『辻おどり』ちゅうて、男と、女が、それぞれ仮装したりしてな。むらの道を、めいめい、うたをうとうて、おどりまわんねん。そらぁ、たのしかったで。(略)うたはな『ドンデンカッカ』いうねん。」(22)と語っている。

 このように、西光は、「縁台将棋」、「盆踊り」(ドンデンカッカ)、「屠場」の職人を最初の場面に登場させることで、この「大都市に近く、水平社のある大部落」の特色を瞬時に表現していた。島崎藤村は島崎家という旧家に流れる「暗くよどんだ血」の問題を、「血統」を理由に社会から排除されている部落出身の知的青年・丑松とを重ね合わせて『破戒』(1906)を執筆したが(23)、部落民の肉体と心をもった人物を登場させた『浄火』は、藤村も含めてこれまで文学者が見向きもしなかった部落民衆の世界にはじめて共感の錘をおろした画期的な作品であった。