【この記事の概要】 現在、私は、1977年10月に部落差別の問題を正面から取り上げることをテーマとして創刊された文芸雑誌『革』(当初の編集委員は野間宏、井上光晴、竹内泰宏、土方鐵、杉浦明平、川元祥一など)に、2020年9月から「解放文学の軌跡」という評論を連載しています。この評論は、部落差別の問題を追及して、日本と日本人を、その深部から捉えようとした近現代の文学作品を批評したもので、2024年3月発行予定の『革』第40号には「解放文学の軌跡(第8回)」の「野間宏と被差別部落―『青年の環』を中心に」が掲載されています。これまで紹介してきたブログの記事の多くは、この連載の下書きとして書いたもので、今後は、『革』連載の批評をブログで公開していく予定です。

今回は、「解放文学の軌跡」の第4回にあたる「水平社創立宣言の世界史的位置―セゼール、サルトル、ファノンを手がかりに」(『革』第36号、2022年3月)の第4回目を掲載します。この評論の引用・転載は自由ですが、必ず出典を明記してください。

 なお、文芸誌『革』は、現在では部落差別のみならず、性的マイノリティ、災害避難民等々、さまざまな社会的排除の対象となっている人々や日本社会の差別構造等の問題を、小説、ルポルタージュ、評論、詩、俳句で表現した作品を掲載しています。申込先は「〒651―2202 神戸市西区押部谷町西盛584―1 『革の会』事務局 善野烺」です。

 

4 水平社創立宣言の批判と回収

部落民意識運動の失速

 水平社創立大会が「エタ民族の万歳を連呼して閉会」(「全国水平社創立大会記」前掲書、194頁)した後、全国水平社は、「宣言」とともに大会において採択された「綱領」の「吾々特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」という原則のもとに、「吾々に対し穢多および特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したると時は徹底的糾弾をなす」という「決議」を各地で実行していった。

高橋貞樹『特殊部落一千年史』(前掲)は、この時期の「水平運動の実際闘争」について、「差別事件が発生すればその解決に努力する。従来泣き寝入りの態度であったのが強くなって、一歩も譲ることなく徹底的に糾弾している。エタ、特殊部落、その他侮蔑の意志を表わす言行をもってしたとき、直接行動によって制裁を与えている。」(241頁)と述べ、具体的な例として、日本内外を震撼させた奈良県における水平社と大日本国粋会・地域住民連合との一大武力抗争事件や、三重松阪に隣接する上御糸村における水平社と地域住民連合が武装して対峙した佐田事件等を取りあげている。

 こうした徹底的糾弾について、佐野学は「1922年に於ける水平運動が最も力を尽したのは普通民のエタ族に対する侮辱的行為を糾弾することにあった。同年中に於て、それは二百余件を数へてゐる。そして大抵勝利を占めてゐる。暴力は屢々行使せられた。しかし水平運動の行使する暴力が反動団体のそれの如き醜悪なものでなく、倫理的意義を多量に含んだものであるのは言ふまでもない。」(52)と述べている。また、米田富は、糾弾について、「我々の権利であると同時に、条理でもある」として、次のように語っている(53)。

 

   「人間は平等ですよ」と、「仲良くしなけれりゃしけませんよ」と、「人を差 

  別するというのは罪なことですよ、罪悪ですよ」と。そんなお説教みたいなこと

  ばっかり続けておったんなら、明治4年から水平社までの間と同じくらいの効果

  しかあがっていなかったと、わたし思うんです。やはり、こっちが闘う意志を持

  ってですね、権利の侵害は許せないんだというような、闘いに立ち上がって、相

  手を反撃したので、相手もようやく反省することになった結果、表面的にもせ

  よ、差別は激減したんだと、こう私は思っています。

 

 サルトルは、植民地における「暴力」について、「ちょうどわれわれの姿が鏡の奥から跳ね返ってくるように、われわれの暴力が自分自身の上に奔流となって返ってくるのである。これを取り違えてはいけない。」、「この抑制できない暴力は訳も分からぬ熱情の狂奔ではないし、野蛮の本能の復活でもなく、怨みの結果でさえない。それは再び自らを再び人間として作りあげつつある者の姿なのである。」(54)と指摘しているが、まさに徹底的糾弾における「暴力」とは、差別する側の暴力が部落民の心を引き裂いて向きをかえたものであり、差別を受けた被害者がそれを克服するための主体的かつ意識的な営為であった。それゆえに、佐野が言うような「倫理的意義を多量に含んだもの」であったのだった。

 このように、1922年から23年時点の全国水平社は、集団としての結集度、規模、武力を含む闘争の豊富な経験、瞬発力、機動力、爆発力の点で突出しており、日本を左右する巨大な力を有する集団と認識されていた(55)。そうしたことから、内務省・警察は危機意識をいだいて全国水平社を注視し、また、日本共産党は自らの革命展望にとって水平社の人びとを〈統括〉することが緊急を要する不可欠な課題と考えた(56)。こうして、アナキストと見なしていた平野小剣らを締め出して水平社運動の主導権を握るという作戦を実行したのが、1924年12月の全国水平社府県委員長会議であった。高橋貞樹ら全国水平社青年同盟(水平共産党)は、情報誌「同和通信」の社長の遠島哲男が警視庁のスパイとして、情報収集を理由に委員長の南梅吉や平野小剣ら全国水平社幹部に金銭を供応していたとされる〈遠島スパイ事件〉を口実に、南、平野の追放、創立幹部総退陣をかちとり、執行部を掌握したのだった。

 「規約は、当時不必要だと云う人が多かったほどそれほど相互の心が密着し、そしてアナキイ的思想が濃厚に創立者の人々の心を動かしていた」(57)という創立期の状況を破壊して実権をにぎった水平社共産党は、水平社運動の根本である徹底的糾弾に関心をはらうこともなく、〈エタ〉民族解放運動路線から転換して、プロレタリア階級路線を推進していった。こうして水平社創立宣言で語った「エタであることを誇り」とする部落民意識運動は、創立幹部の総退陣とともに失速していった。しかも、それだけではなく、水平社内の共産主義グループによって、やがて水平社創立宣言は全面批判にさらされることになった。

 

水平社創立宣言の全面否定

 昭和恐慌下における部落民の窮乏化の進行にもかかわらず、内部の対立抗争にエネルギーをつかい、全国的には水平社運動は沈滞し、総本部の維持がやっとという状態に陥っていた。そうした中で、朝田善之助、北原泰作ら水平社内の共産主義グループ(解消派)は、1931年に開かれた第10回全国大会に水平社九州連合会常任理事会の名で「全国水平社解消の提議―第10回全国大会運動方針への意見書」を提案した。

 朝田の回想によると、この文書は、「左翼労働組合は勤労大衆を個々の敵対的グループに分裂せしめるところの身分関係(水平社)に反対し、排外主義に反対し」という国際共産主義運動の指導組織コミンテルンの後援のもとに創設されたプロフィンテルン(国際赤色労働組合)の第5回大会(1930年8月)の決議「日本における革命的労働組合の任務」と、当面する革命の性質を「ブルジョア民主主義的任務を広範に抱擁するプロレタリア革命」と規定した日本共産党の「政治テーゼ草案」(31年テーゼ)を「機械的、教条的に受け入れ」、部落の労働者、農民の革命的労働組合・農民組合への再組織と水平社の即時解消を打ち出したもので、「今日から見れば、全くの左翼的偏向」であった、という(58)。このように、「全国水平社解消の提議」は、水平社運動を共産党の階級闘争の一部にすぎないものと見なしていたが、そこでは階級・身分・民族の関係について、次のように書かれていた(59)。

 

   抑圧者側に立つ労働者農民の有つ民族的及び身分的偏見はブルジョアジーによ

  ってプロレタリアの階級意識を蒙昧ならしむることに利用されている。殊にファ

  ッショ化せる日本帝国主義支配階級は民族的偏見(朝鮮・台湾・中国の労働者に

  対する)及び特殊部落民に対する身分的偏見を階級支配の用具として利用してゐ

  るのである。例へば関東大震災に於ける朝鮮人労働者××事件、世良田水平社襲撃

  焼打事件、最近には満州における万宝山事件等々。

   他面、被抑圧者側に就て見れば抑圧者側に対して全体的にブルジョアもプロレ

  タリアも同様に敵視する偏見となって現はれ甚だしく階級的結合を阻害する結果

  を招いている。民族運動に於ける民族主義及び水平運動に於ける水平主義等がそ

  れである。

 

 この「全国水平社解消の提議」に続いて、朝田、北原ら解消派は、翌年(1932年)5月に『水平社運動の批判―全国水平社解消論』という北原泰作執筆のパンフレットを全水解消闘争中央準備委員会から発行し、水平社創立宣言について、「この宣言は、全体が宗教的臭味の強い字句と、文学的表現で満たされている。感傷的な文字を並べて部落民意識と排外主義的思想を強調している以外、我々はこの宣言から政治的意義を抽き出すことが出来ないことを指摘しなければならない。」(60)と、水平社創立宣言を特徴づける「部落民意識」や「文学的表現」などを全否定し、価値のないものとして切り捨てた。

 すでに見てきたように、水平社運動とは、これまで部落民が置かれてきた立場をはっきりと見すえたうえで、あるべき自己の姿と社会を想定し、それに向かって自己変革を続けると同時に、差別する側に対しても変革をせまっていく運動であったが、朝田、北原ら解消派は、そうした水平社運動の意義やその「文学的表現」でもあった水平社創立宣言を捨象し、無効化したのだった。

 さらに、「階級的結合」の問題についても「民族運動における民族主義及び水平運動における水平主義」が「階級的結合を阻害する結果を招いている」と非難しているが、平野小剣がエッセイ「或る夜のこと」(『種蒔く人』1923年2月)で労働運動を闘う労働者の差別意識の根深さを生々しく描いているように、実際に「階級的結合を阻害する結果を招いている」のは他でもなく労働者がとらわれている部落差別、民族差別、女性差別であった。

 このような自分自身が内面化している差別意識を差別する側の人間が自覚し、変革することは極めて難しく、それを自覚するには、闘う被差別当事者との出会いに始まり、以後、日常的な触れあいの中に、新しい感性を創っていくことが必要である(61)。しかし、解消派の意見は、こうした「被抑圧者側」がとらわれている差別意識の変革の道すじを全く問おうとはしておらず、金静美が指摘しているように、「階級・身分・民族の関係をまじめに考えようとしておらず、根ぶかい排外主義をもっていることを示している。」(62)といえるだろう。

 一方、水平社創立宣言自体も、祖先からの継承を中心とする考え方や植民地主義の無自覚、植民地民衆への想像力の欠如等の問題点を露呈させることになった。昭和天皇の即位礼が挙行された1928年の8月、頑強に部落民意識にこだわりつづけた平野小剣は、アジア主義と日本主義を掲げる国家主義団体である内外更始倶楽部を立ち上げ、天皇のもとでの解放を主張するとともに、「日本は断乎として東洋の平和を撹乱する支那、国際信義を蹂躙する不信、不逞国として徹底的に糾弾し、その迷夢を醒ますことが緊要なのである」(63)として、中国への侵略戦争に積極的に加担していった。

 さらにまた、西光万吉は、「今や我らは『人間に光りあれ』人世に熱あれの願望を惟神道に求め八紘一宇の高天原展開に精進せんとするものだ」(64)と、アジア侵略のスローガンであった「八紘一宇」と水平社創立宣言を政治的に連結させ、「こんにち、忠勇なる皇軍が捧げて、中国の民衆に太陽の回帰を告げる旭日軍旗も、また大和御平定の金鵄と同じうするものであることは論をまたぬ。」(65)と述べて中国侵略を支持していった。

 こうして、搾取や抑圧のない理想世界の実現を熱烈に追いかけるあまり、植民地侵略のための戦争という現実と自らの植民地主義、天皇主義への汚染の問題に厳しい目を向けなかったことにより、「万世一系」の天皇制イデオロギーに回収され、侵略戦争の渦の中に呑み込まれていったのだった。

 

ネグリチュードの批判―サルトル「黒いオルフェ」

 このように、水平社創立宣言や部落民意識に対する意見や批判は、決して実りあるものとはいえなかったが、ネグリチュードの問題点を指摘したサルトルやファノンの場合はそうではなかった。サルトルは1948年に発表した「黒いオルフェ」(前掲)の中で、黒人の歴史的使命について、水平社創立宣言の「人の世の冷たさが何んなに冷たいか、人間を勦わることが何であるかをよく知っている吾々は、心から人世の熱と光を願求礼賛する」を思わせるような「黒人は他の人間以上に資本主義の搾取に苦しんできたから、他の人間以上に反抗の感覚と自由への愛を獲得している。また誰よりも抑圧されたものなのだから、彼が自分自身の救済に努めるとき、必然的に彼はあらゆる人間の解放を追求していることになる。」(195頁)という重要な指摘を行ったうえで、ネグリチュードについて次のように語る。

 

   〈ネグリチュード〉は弁証法的進行の衰弱した時間[一時的な契機]のように

  見える。命題(テーゼ)は白人の覇権の理論的実際的肯定だ。反命題(アンチ・

  テーゼ)的価値としてネグリチュードを定立することが、否定性の契機となる。

  しかしこの否定性の契機は、それ自体で充足するものではない。これを用いる黒

  人も、そのことを知り抜いている。否定性の契機が総合を、つまり人種のない社

  会での人間的なものの実現を準備しようとしていることを、彼らは承知してい

  る。このように、〈ネグリチュード〉は己を破壊する性質のものであり、経過で

  あって到達ではなく、手段であって最終目的ではない。(197頁)

 

 このように、サルトルは、ネグリチュードを、白人の優越性に対するアンチ・テーゼ、人種差別のない社会を実現するための契機、出発点、あるいは低次なものとしてとらえたのであったが、それまでネグリチュードに依拠していたファノンの「この一節を読んだとき、私は自分の最後のチャンスが盗み取られたと感じた。私は友人たちに宣言した、『若い黒人詩人の世代は今、致命的な打撃を受けた』(前掲『黒い皮膚・白い仮面』91頁)という言葉も作用して、ネグリチュードに対する決定的な批判と受けとられてきたように思われる。しかし、今日から見れば、この時期のサルトルがマルクス主義の発展段階論の呪縛から必ずしも自由でなかったことから、この指摘にはくつかの問題がある。

 まず何よりも、今日における黒人に対する暴力と人種差別の撤廃を訴える国際的な行動であるブラック・ライヴズ・マタ―運動やアジア系アメリカ人に対するヘイトクライムの増加等を見るまでもなく、人種主義は消滅したわけでは決してなく、サルトルが言うような「人種のない社会」が全く到来していない点である。さらにまた、黒人をはじめとする有色人種を劣等感の中に閉じ込めてきた「文化主義的人種主義」の具体化である同化政策も継続され、強化されている(66)。このように、人種差別への闘争であり、同化への抵抗であるネグリチュードの出現を必要とする状況は依然として存在しており、サルトルが述べるように、ネグリチュードを「弁証法的進行の衰弱した時間」と位置づけることには大きな問題がある。

 次に問題なのは、『フランツ・ファノン』(講談社、1981年)の著者・海老坂武が指摘するように、ネグリチュードの「乗り越え」について「サルトルは階級意識、ないしは〈革命〉の方向」(123頁)を考えていた点である。つまり、マルクスの思想を肯定しつづけたサルトルは、階級闘争を社会発展の原動力と位置づけた唯物史観にもとづいて、「階級意識」を「最終目標」とし、そこからネグリチュードを「階級意識」形成のための「経過であって到達ではなく、手段であって最終目的ではない」と位置づけたのであった。しかし、先にも触れたように、労働者がとらわれている部落差別、民族差別、女性差別の根深さを考えるなら、労働者の「階級意識」の形成には反差別の観点が不可欠であり、ネグリチュードは決して階級意識形成の[一時的な契機]、出発点、低次なものとして位置づけられるべきものではなく、「人種のない社会での人間的なものの実現」のために、何度でも立ち返らなければならないものである。

 このように、「黒いオルフェ」の数年後に書かれた論文「共産主義者と平和」(1952―1954)で「共産党の同伴者」であることを宣言したサルトルによるネグリチュードの指摘は、今日ではその限界が露呈している史的唯物論から取り出した社会主義社会の到来を想定して組み立てられた発展段階論にもとづいて、階級と民族(人種)の間に政治的な優先順位をつけたものであった(67)。20世紀社会主義の試みの挫折という事実が示している発展段階的把握の破産をふまえるなら、改めて新たな視点からのネグリチュード再評価が必要であり、このことはマルクス主義の強い影響下にあった部落解放運動、部落解放理論、部落史研究における部落民意識の認識についても同じことが言えるのではないだろうか(68)。

 

ファノンとネグリチュード―『黒い皮膚・白い仮面』『地に呪われたる者』

 サルトルは、その後、1954年に勃発したフランスの植民地アルジェリアの独立戦争(1954―1962)に深く関わる中で大きく転回していった。1956年に発表された「植民地主義は一つの体制である」において、「良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるというようなことは真実ではない。植民者がいる、それだけのことだ」と、植民者である以上、どんなに善意を持っている者でも、この体制が変わらない限り、抑圧する側の一員に組み込まれざるを得ないことを指摘し、植民地独立のためのアルジェリア民族解放戦線(FLМ)の武装闘争を支持して、抑圧の共犯者になることを拒否した(69)。こうして、サルトルは、「植民地人民の植民地主義に対する闘い、有色人種諸民族の人種主義の闘い」を「フランス資本主義に対するフランス労働者の闘い」の「一部、一断片にすぎないものと見なす」(70)フランス共産党に見られるようなヨーロッパ中心主義、同化主義と決別し、ヨーロッパの否認の道へと踏み出していった。

 そのサルトルと、アルジェリア民族解放戦線(FLМ)に参加してアルジェリア独立戦争を闘ったファノンとの関係について、海老坂武は「『存在と無』をとおして、『ユダヤ人問題』をとおして、ファノンはそれ以前からサルトルに注目し、すでに大きく影響を被っていた」(『フランツ・ファノン』前掲、122頁)と述べている。したがって、サルトルが「黒いオルフェ」において先のようなネグリチュード批判を行った時、ファノンが「この一節を読んだとき、私は自分の最後のチャンスが盗み取られたと感じた。」(前掲)と激しく動揺したのは当然のことであった。

 こうしてファノンは、ネグリチュードにおけるアフリカ文化への回帰を「私は、決して、黒い皮膚を持つ民族の過去から私本来の使命を絶対に引き出すべきではないのだ。/私は不当にも無視されてきた二グロ文明を復活させることに執着すべきではないのだ。私はいかなる過去の手先にはならぬ。私は私の現在と未来の犠牲において過去を讃美することを欲しない。」(140頁)と拒否し、さらにまたサルトルが指摘したような白人と対比して自己を規定する二項対立的な問題設定についても「黒人であるこの私は、私の人種がいかなる点で他の人種に優っているか、また劣っているかにかまける権利をもたない。/黒人であるこの私は、私の人種の過去に対する罪悪感が白人のうちに結晶化することを願う権利を持たない。(略)二グロの使命はない。白人の重荷はない。」(141、142頁)と拒否する。

 このようなファノンの悲痛な叫びは、白人との出会いが「人間同士の出会いではなく、歴史的な屈辱と罪悪感の出会い」(71)であったような自らの体験にもとづくものと思えるが、その拒否のうえに、ファノンは、ネグリチュードの乗り越えについて、「黒人であるこの私の欲する事ことはただひとつ。/道具に人間を支配させてはならぬこと。人間による人間の、つまり他者による私の奴隷化が永久に止むこと。彼がどこにいようが、人間を発見し人間を求めることがこの私に許されるべきこと。/二グロは存在しない。白人も同様に存在しない。」(143頁)と語り、「肌の色」がもはやアイデンティティを決定する要素ではない人種以後の社会の建設を模索してゆく(72)。

 こうしたファノンの軌跡は、差別・抑圧された民族の解放運動について、西川長夫が「抑圧された少数派民族の解放運動が、自己の民族的な独自性の発見と民族的な誇りの強調に向かうのは自然の成り行きだろう。だがこの運動はそこで止まりはしない。かつて奴隷として暴力的に拉致された黒人たちの解放運動は、公民権運動のように市民としての平等の権利を求める一方で、自己の民族的な独自性(ネグリチュード)とルーツ探しに向かうであろうが、ルーツをたどって行きついた民族的独自性の虚構にいつかは気付き、現在のあるがままの自分たちの姿に真の価値を見出すことになるだろう。」(73)と指摘したことと重なるところが多い。

 しかし、『黒い皮膚・白い仮面』(前掲)の第5章「黒人の生体験」語られている黒い肌との葛藤や、その後の民族解放運動の中でファノンが体験した人種差別を考えると(74)、鈴木道彦が『地に呪われたる者』(前掲)の「解説」で述べているように、「ファノンにおいてはすべてがその黒い肌から出発している。彼は終生その肌の色を忘れなかったにちがいない」(196頁)。とするならば、ネグリチュードにおけるアフリカの神話化や二項対立にとらわれた思考という面を拒否したファノンであったが、黒人性、黒人意識の問題は決して解決済みであったわけではなく、最後まで葛藤しつづけた問題であったのではないだろうか。

 こう見てくると、1959年にロ―マで行なわれた第二回黒人作家芸術家会議においてファノンが「民族建設は必ずや普遍化的な価値の発見とその促進を伴うことになる。それ故他の諸民族から遠ざかるどころか、民族解放こそが、民族を歴史の舞台に登場させるものである。民族意識の内奥にこそ、インターナショナルな意識が高まりゆき、活気づいてゆくのだ。そしてその二重の噴出こそ、つまるところあらゆる文化の炉床にほかならない。」(『地に呪われたる者』前掲142頁)と語った「民族意識」「民族建設」は、黒人意識、ネグリチュードにも当てはまるものとして解釈できる。そして、セゼールが「私が二グロについて語ったことは、二グロだけに当てはまることではありません。」(75)と語っているように、それはまた水平社創立宣言における部落民意識、集団運動、人間主義を的確に表現している言葉として読み換えることができるだろう。

 このように、水平社創立宣言やネグリチュード、さらにはファノンの「民族意識」「民族建設」に関する思想は、エスニシティ(民族・集団)の本質化と社会的共同性の再構築を繋げようとした実践でもあったのだった。