【この記事の概要】 現在、私は、1977年10月に部落差別の問題を正面から取り上げることをテーマとして創刊された文芸雑誌『革』(当初の編集委員は野間宏、井上光晴、竹内泰宏、土方鐵、杉浦明平、川元祥一など)に、2020年9月から「解放文学の軌跡」という評論を連載しています。この評論は、部落差別の問題を追及して、日本と日本人を、その深部から捉えようとした近現代の文学作品を批評したもので、2024年3月発行予定の『革』第40号には「解放文学の軌跡(第8回)」の「野間宏と被差別部落―『青年の環』を中心に」が掲載されています。これまで紹介してきたブログの記事の多くは、この連載の下書きとして書いたもので、今後は、『革』連載の批評をブログで公開していく予定です。今回は、「解放文学の軌跡」の第5回にあたる島崎藤村「『破戒』をめぐる諸問題」(『革』第37号、2022年9月)の最終回を掲載します。この評論の引用・転載は自由ですが、必ず出典を明記してください。

なお、文芸誌『革』は、現在では部落差別のみならず、性的マイノリティ、災害避難民等々、さまざまな社会的排除の対象となっている人々や日本社会の差別構造等の問題を、小説、ルポルタージュ、評論、詩、俳句で表現した作品を掲載しています。申込先は「〒651―2202 神戸市西区押部谷町西盛584―1 『革の会』事務局 善野烺」です。

 

第三章 告白の評価をめぐって

部落民意識の綻び

 『破戒』の第二章は校長と郡視学による丑松の排除と差別的な会話の場面であったが、第一章の冒頭にも差別事件の場面が描かれている。その差別事件とは、次のようなものである。

 飯山の病院に入院した大日向という金持ちが「彼は穢多だ」ということで、他の入院患者から「放逐して了え。今直ぐ、それが出来ないとあらば吾儕(われわれ)挙(こぞ)って御免を蒙る」と院長を脅かす騒動を起され、もと居た丑松の下宿に戻ってきた。そこでも「さあ今度は下宿のものが承知しない。丁度丑松が一日の勤務を終って、疲れて宿へ帰った時は、一同『主婦(かみさん)を出せ』と喚き立てるところ。『不浄だ、不浄だ』の罵詈は無遠慮な客の唇を衝いて出た。『不浄だとは何だ』と丑松は心に憤って、蔭ながらあの大日向の不幸を僯(あわれ)んだり、道理(いわれ)のないこの非人扱いを概(なげ)いたりして、穢多の種族の悲惨な運命を思いつづけた――丑松もまた穢多なのである」(6―7頁)。こうして大日向は下宿先からも放逐されることになって、籠に舁がれて下宿を去る時、「『ざまあ見やがれ』/これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であった」(13頁)。

 この大日向の差別事件について、藤村は「紫屋の主人という穢多の方の大尽に彼様(ああ)いうことがあったのを書いて見たのである。尤も飯山にあったのではなく、越後の高田にあった事実である。」(32)と語っているが、藤村は作品の構成を綿密に計算して、地域社会における差別事件を第一章に、小学校内の差別の状況を第二章に置くことで、丑松が生活していた空間の差別の状況を最初に明確化しようとしたものと思われる。そして、そこからさらに丑松に与えた差別事件の衝撃が描かれ、作品のテーマがより鮮明にされる。

 それまでの丑松は師範学校への入学のために親元を離れる時に、父親から聞かされた先祖の話や「隠せ」という「戒」も、「『阿爺が何を言うか』位に聞き流して」(15頁)、「官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、ただ先祖の昔話としか考えていなかった」(19頁)。「長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となったまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じような量見で、危いとも恐ろしいとも思わずに通り越してきた」(15頁)。

 こうした部落差別の問題を他人事として生きてきた丑松の考えが一変するのが、先の大日向に対する差別事件であった。この差別事件に遭遇した丑松は「不浄だとは何だ」という部落差別への憤りとともに、「哀僯、恐怖、千々の思は烈しく丑松の胸中に往来した。病院から追われ、下宿から追われ、その残酷な待遇と恥辱とを受けて、黙って舁がれて行く彼の大尽の運命を考えると、さぞ籠の中の人は悲概(なげき)の血涙に噎(むせ)んだであろう。大日向の運命は穢多の運命である。思えば他人事では無い。」(13―14頁)というような思いを抱き、これまで「忘れ勝ち」であった「戒」も「今は自分から隠そうと思うようになった」(15頁)。 

このように、藤村は、「道理のない」差別に対する人間的な憤りとともに、恐怖、絶望、身元隠しへの傾斜など、部落差別に遭遇した人間が持つ複雑な感情を見事に表現していた。この大日向の差別事件は、蓮華寺の住職が養女のお志保に言い寄っていたことを奥様から告げられた後に、丑松が町を彷徨する場面でも詳しく再現されているが(第十九章)、ここで注目する必要があるのは、これが引き金となって引き起こされた恐怖を「ああ、ああ、捨てられたくない、非人あつかいにはされたくない、何時までも世間の人と同じようにして生きたい」(348頁)と考え、丑松が「穢多の種族の悲惨な運命」を思い起こしていることである。

 

   ――こう考えて、同族の受けた種々の悲しい恥、世にある不道理な習慣、「番太」という乞食の階級よりも一層劣等な人種のように卑められた今日のまでの穢多の歴史を繰り返した。丑松はまた見たり聞いたりした事実を数えて、あるいは追われたりあるいは自分で隠れたりした人々、父や、叔父や、先輩(猪子のこと―宮本)や、それからあの下高井の大尽(大日向のこと―宮本)の心地を身に引比べ、終には娼婦として秘密に売買されるという多くの美しい穢多の娘の運命などを思いやった。(348頁)

 

 全国水平社が創立されてから2年後の1924年に出版された『特殊部落一

千年史』の中で、著者の高橋貞樹は、「特殊部落民の権利を宣言し、哀願的態度

を放棄して、一切の因習を破壊せんとする水平社の運動の底に一貫するものは、

同胞を差別する意味なき歴史的伝統に対する憤激の涙と怒りである。」(33)

と述べている。全国水平社が創立される15年余前に、藤村が厳しい差別に直

面した部落民の中に芽生える「同胞を差別する意味なき歴史的伝統に対する憤

激の涙と怒り」という意識を捉えて、それを丑松の感情として表現したことの

文学的価値は、はかり知れないものがあるだろう。

 しかし、そのような丑松の部落民意識には大きな綻びあった。父親に深手を

負わせた種牛の最後を見届けるために屠牛場を訪れた時、「屠夫」として働いて

いる部落の人たちに対して、丑松は「いずれ紛(まが)いの無い新平民―殊に

卑賤しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明白(ありあり)と目につく。

一人々々の赤ら顔には、烙印が推し当てて有ると言ってもよい。中には下層の

新平民に克(よ)くある愚純な目付を為ながら是方(こちら)を振り返るもあ

り、中には畏縮(いじけ)た、兢々(おずおず)した様子で盗むように客を眺

めるものもある。」(177頁)と、人種差別的な視線を向けており、また、自

分自身に対しても「卑賤しい穢多の子の身である」(363頁)と卑下してい

る。

 言うまでもなく、こうした部落民を見つめる丑松の視線は差別する側の視線と変わりはなく、その部落民意識は分裂している。こうしたことは、彼が明治維新までは「40戸ばかりの一族の『お頭』と言われる家柄」で、祖先は朝鮮、中国、ロシアからの「異邦人の末」ではなく、その血統は「古の武士の落人」で「罪悪の為に穢れたような家族ではない」という父親から聞かされた人種、血統などに関する差別する側と同じ規範を、そのまま受けとったことから生じたものだった(34)。志賀直哉が「一体丑松はえたなのか?えたでないのか?(略)丑松は本当はえたぢゃないんだらう?」という疑問を抱いたのは、このためであった。

 同じようなことは、「我は穢多なり」「我は穢多を恥とせず」と公言して部落差別に抵抗する猪子蓮太郎にも見られる。「古い穢多の宗族」で、長野の師範学校の心理学の講師をしていたと設定されている猪子も、貧しい部落において一代で富を築いた六左衛門の娘と選挙資金欲しさに「政治的結婚」した高柳の行為に対して、「いくら吾儕(われわれ)が無智な卑賤(いや)しいものだからと言って、蹈付(ふみつ)けられるにも程がある」(191頁)と、差別する側の「穢多を恥とする」価値観を受け入れた形でしか平等の主張を行えていない。

 このような部落民を見つめる丑松や猪子の視線の分裂は、先に述べたような藤村が抱いていた人種差別的な部落観によってもたらされたものだった。藤村はこの自己矛盾にこそ目を向けるべきであったが、このことの認識と自覚をまったく欠如させたまま、丑松に「戒」を破らせることになるのだった。

 

告白までの経過

 これから様々な意見が出されている丑松の告白の場面(第二十一章)について考えてみたいが、その前に、告白に至るまでの経過をまず見ておこう。

 大日向の差別事件を契機として部落民意識に目覚めた丑松は、幾度も尊敬す

る猪子に「身の素性」を告白しようとするが、秘密が漏れて拡散するのを恐れ

て告白できない。そのような自分に丑松は罪悪感を覚え、精神的に追い込まれ

ていく。その一方で、校長、勝野文平、さらには高柳や準教員らによる身元暴

きの動きが進み、「酷烈(はげ)しい、犯し難い社会の威力」が次第に丑松の身

に迫ってくる。そうした中で、丑松は、「猜疑」と「恐怖」から行ってきた「隠す」という行為が「虚偽」であり、「良心」や「精神の自由」に反するものであり、自分自身の「内部の生命」の発達を阻害すると考え、「言うべし、言うべし、それが自分の進む道路では有るまいか。」と決意する(168―169頁)。

 こうして、丑松は勝野文平の「猪子蓮太郎だなんて言ったつて、高が穢多じゃないか」「あんな下等人種の中から碌なものの出よう筈がないさ」という差別発言に対しても、「それが君、どうした」、「噫、開化した高尚な人は、予め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業等に従事している。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生などはそんな成功を夢にも見られない。はじめから野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に立っているのだ。その概然として心意気は――ははははは、悲しいしゃないか、勇ましいじゃないか」と切り返し、精一杯の抵抗を試みる(329―331頁)。

 この後も、丑松は自分が「身の素性」を隠さねばならない人間であることを忘れるわけには行かず、告白することによって放逐されるか、それとも死か、と独りで苦しみ続ける。そして、自殺する前に「せめて、あの先輩だけに自分のことを話そう」と思い着くが、猪子は演説会の帰りに高柳派の壮士たちに襲われ、命を落とす。猪子に告白しなかったことを後悔した丑松は、猪子の生涯と自分の歩んできた道を比べて、次のように考える。

 

   ・・・さすがに先輩の生涯は男らしい生涯であった。新平民らしい生涯であっ 

  た。有のままに素性を公言して歩いても、それでも人に用いられ、万許されてい

  た。「我は穢多を恥とせず」――何というまあ壮(さかん)な思想だろう。それ

  に比べると自分の今の生涯は――

   その時に成って、始めて丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽(か

  く)そう隠蔽そうとして、持って生れた自然の性質を銷磨(すりへら)していた

  のだ。その為に一時も自分を忘れることが出来なかったのだ。思えば今までの生

  涯は虚偽(いつわり)の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ――何を

  思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではない

  か。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。(359頁)

 

 部落出身者が他人と親密な関係を結ぼうとした時、部落出身であることを告白するか、あるいは、後ろめたさを覚えながらも告白せずにやりすごすか、いずれかに追い込まれるということがある。藤村はこのような部落民の中に見られる心理を的確に捉え、表現していた。また、悪意をもって身元を暴き、丑松を追い込もうする校長、勝野文平、高柳、準教員に関しても藤村の視線は鋭く、これらの人びとは間違いなく差別者としての肉体を持ち、心理も持っている人物として描かれている。

 その一方で、丑松が「戒」に抗う思想とした猪子の「我は穢多を恥とせず」については、「何というまあ壮(さかん)な思想だろう」と述べられているだけである。「我は穢多を恥とせず」にせよ、「我は穢多なり」にしろ、このような思想にたどりつくには、みずからが部落民であることを引き受け、肯定すること、すなわち、自らが内面化している差別意識や卑下心と向き合い、それを変革しようとすることが不可欠である。しかし、先に見たように、猪子は「いくら吾儕(われわれ)が無智な卑賤(いや)しいものだからと言って、蹈付(ふみつ)けられるにも程がある」(191頁)と、差別する側の「穢多を恥とする」価値観を受け入れたままである。

 このように、「我は穢多なり」「我は穢多を恥とせず」という言葉の重要性を見抜いて物語のカギとなる場面でくり返し言及した藤村であったが、当時の部落民の脱賤の努力が「自らの自助努力で生活習慣を改めることで“同じ”に見なされようとする段階であった」(35)とはいえ、部落民衆に対する野蛮視・劣等視に内縛されていたために、それを具現化するために必要なイメージを与えることはできなかった。こうして、自分たちを卑下し、自分たち自身を差別するという致命的な問題点を持ったまま、丑松は告白に向うことになった。

 

告白の評価をめぐって

 その丑松の告白は、12月1日午後の国語の時間、自分が担任している高等四年(15,6歳)の生徒に対して行われた。丑松は「御存じでしょう」「御存じでしょう」と過剰にへりくだりつつ、「この山国に住む人々」の中に「穢多という階級」があること、そして「その穢多」の居住地、生活、部落外の人間との交流のあり方などを話して、「まあ、穢多というものはそれ程卑賤しい階級としてあるのです。もしその穢多がこの教室へやって来て、皆さんに国語や地理を教えるとしましたら、その時皆さんはどう思いますか、皆さんの父親さんや母親さんはどう思いましょうか――実は、私はその卑賤しい穢多の一人です。」と告白し、それに続けて次のように語りかける。

 

   [「これから将来、五年十年と起って、稀には皆さんが小学校時代のことを考

  えて御覧なさる時に――ああ、あの高等四年の教室で、瀬川という教員に習った

  ことが有ったッけ――あの穢多の教員が素性を告白けて、別離を述べて行く時

  に、正月になれば自分等と同じように屠蘇を祝い、天長節が来れば同じように君

  が代を歌って、蔭ながら自分等の幸福を出世を祈ると言ったッけ――こう思出し

  て頂きたいのです。私が今こういうことを打ち明けましたら、定めし皆さんは穢

  しいという感情を起すでしょう。ああ、仮令(たとい)私は卑賤しい生れでも、

  すくなくとも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛け教え

  て上げた積りです。せめてその骨折に免じて、今日までのことは何卒許してくだ

  さい。」

   こう言って、生徒の机のところへ手を突いて、詫入るように頭を下げた。  

  「皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒父親さんや母親さんに私のことを

  話してください――今まで隠蔽していたのは全く済まなかった、と言って、皆さ

  んの前に手を突いて、こうして告白けたことを話して下さい――全く、私は穢多 

  です、調理です。不浄な人間です」とこう添加して言った。

   丑松はまだ詫び足りないと思ったか、二歩三歩退却して、「許して下さい」を

  言いながら板敷の上へ跪いた。](379―380頁)

 

 この告白の場面について、岩波文庫『破戒』の解説で、野間宏は「『破戒』というのはこのようなことなのだろうか。破戒とは父のさずけた戒の意味を根底からくつがえす心をもって、自らその戒を破り去り、父にそのような封建的な戒をもたらせたもの、不合理な社会にたいするたたかいを宣言することでなければならない。テキサスへ新天地を求めるなどというのは、逃げて行くことを示すものにほかならない。」(36)と述べている。

 さらにまた、「丑松は、ここでは、人間宣言・部落民宣言をこそ、するべきであった」と野間と同じような主張を行った土方鐵は、「丑松は、あの告白のあと、お志保をたずねている。」、「ならば、どうして仙太に、声をかけてやらないのか。(略)/丑松は、少年仙太にこそ、声をかけてやるのが、人間として自然なのではないか。/こういったところにも、藤村の人間の捉えかたに、欠点をみることができる。」(37)と付け加えている。

 たしかに土方が言うように、告白のあとには部落の少年・仙太の姿が消えている。それだけではなく、告白そのものに関しても、「私はその卑賤しい穢多の一人です」というような卑屈な言葉が、この学校にこれからも通う仙太に対してどのような影響を与えるかという問題が抜け落ちている。「いよいよ明日は、学校へ行って告白(うちあ)けよう。教員仲間にも、生徒にも、話そう。そうだ、それを為(す)るにしても後々までの笑い草なぞには成らないように。なるべく他に迷惑を掛けないように」(362頁)と決心したのであればなおさらである。先にも述べたように、こうした問題は、困難な立場に置かれている人たちに対する藤村の感性のあり方が反映されており、土方が指摘している通り、「こういったところにも、藤村の人間の捉えかたに、欠点をみることができる」のは明らかといわなくてはならないだろう。

 このような野間や土方の批判は、部落解放という視点から丑松の告白の問題点をついたものである。私自身も、少なくとも丑松は「同族の受けた種々の悲しい恥、世にある不道理な習慣、『番太』という乞食の階級よりも一層劣等な人種のように卑められた今日までの穢多の歴史」(348頁)を語り、「何故、新平民ばかりがそんなに卑められたり、辱められたりするのであろう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入りが出来ないのであろう。何故、新平民ばかりがこの社会に生きながらえる権利が無いのであろう」(342頁)ということを訴えるべきであったと思う。

 にもかかわらず、実際に行なわれた告白は、あのような卑屈で無様なものに終わってしまっている。このことについて、土方は、大日向の放逐や猪子の殺害に触れて、「土下座して謝ったというのは、当時のきびしい状況からいえば、おそらくリンチにあうのじゃなかろうかというところからきた、当然の行為とも思われるんですね。」(38)と指摘している。しかし、『破戒』という作品は、丑松がそのような「きびしい状況」を乗り越えて告白を行うところに重要な意味がこめられているのであって、土方の見解は適切なものとはいえない。

 それでは猪子の「我は穢多なり」を実行した丑松の告白は、なぜあのようなものなったのであろうか。これまでも述べてきたように、この問題については、『破戒』が国民統合と国家イデオロギーの浸透がはかられていた日露戦争の時期に書かれていたこと、「穢多」は「卑賤しい」ものであり、そこからの脱出口は文明化=国民化を通じての立身出世にあるということを当然視することによって作品が成り立っていることに、目を向ける必要があるだろう。

 土下座して謝罪する前に、丑松は「仮令(たとい)私は卑賤しい生れでも、すくなくとも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛けて教えて上げた積りです。せめてその骨折に免じて、今日までのことは何卒許して下さい」と語っている。小学校教員としての丑松が「国語」や「地理」で教えようとした「立派な思想」とは、「国体」思想であり、天皇制国家の「臣民」としての思想であった。そのような「臣民」を養成する役割を担っている自分が、「素性」を「隠蔽」するという「臣民」として恥ずべき行為をしていたということに深い自責の念を抱いて、丑松は生徒たちに「土下座」をしたのではないだろうか。

 また、丑松は「あの穢多の教員が素性を告白けて、別離を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じように屠蘇を祝い、天長節が来れば同じように君が代を歌って、蔭ながら自分等の幸福を出世を祈ると言ったッけ――こう思出して頂きたいのです」と語っている。この言葉についても、「一君万民」の思想のもとでの「日本国民」としての「同じ」の主張であり(39)、「帝国の機構の運転者」ともいうべき道を歩んできた丑松の「臣民宣言」として理解できるだろう

 部落解放の観点から土方は「文学作品として丁寧に読んでいくと、作品の必然としての、丑松像から、この告白の場面での、ことばや、姿勢・態度は大きくはずれている」と述べ、このような「作品そのものの、当然の帰結を、主人公が裏切っている」理由を「リンチをも予想する」状況に求めたが(40)、「臣民」であり、「帝国の機構の運転者」である丑松像からみれば、丑松の苦悩や葛藤、告白の場面、「テキサス」行き等の最後の結末は、すべてひとつのものにつながっていたのだった。

 

おわりに

 告白を終えた丑松の心境について、藤村は「猜疑、恐怖――ああ、ああ、二六時中忘れのことの出来なかった苦痛は僅かに胸を離れたのである。今は鳥のように自由だ。どんなに丑松は冷い十二月の朝の空気を呼吸して、漸く重荷を下したようなその蘇生の思に帰ったであろう。」(405頁)と描いている。ここだけを見るなら、志賀直哉が「丑松の破戒は只破戒で、それ以上殆むどなんにもない。只父の戒めを破つた為に秘密がなくなり、大に楽になつた、人と交はるのに恐ろしさが消えた位である。(其の中に何らかの大きな自覚でも来るのかと実は想つてゐたのさ)」(41)と語った感想の通りだろう。しかし、藤村は、丑松を待ち受けている未来が決して楽観できるものでないことを暗示している。最終章(第二十三章)で、丑松が飯山を去り、東京へ向かう前日の学校の様子が次のように語られている。

 

   昨日校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になった理由を演説したこ

  と、その時丑松の人物を非難したり、平素の行為に烈しい攻撃を加えたりして、

  寧ろ今度の改革は(校長はわざわざ改革という言葉を用いた)学校の将来に取っ

  て非常な好都合であると言ったこと―そんなことは銀之助の知らない出来事であ

  った。ああ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑―世

  を焼く火焔は出発の間際まで丑松の身に追い迫ってきたのである。(412―4

  13頁)

 

 この語りは、丑松を見送りに来た高等四年の生徒たちに「届もしないで、無断で休むという法はない。」として学校側(校長に命じられた準教員)が見送りを阻止しようとする場面の中で描かれている(同前)。その場面について、川元祥一は「これは明らかに校長を代表とする支配者の丑松にたいする差別意識をあらわしている。最後までその構造は丑松のうえにふりかかってくるのだ。しかしその校長を代表する古い飯山の町にはすでに時代の“良心”ともいえる人々の姿はなく、支配構造をさらけ出したままのぬけがらなのだ。私はこの執拗にえがかれる支配構造の中に、藤村の、時代への抗議を感じる。」(42)指摘している。卓見である。

 この飯山だけでなく、東京へ行って猪子の後を継ぐにしろ、テスサス行きを選択するにしろ、どこに居ようと部落差別から完全に逃れられるような場所は存在していない。劣等意識に囚われつづけ、人間として誇り得ぬ丑松に、果たして「鳥のように自由だ」と思える日々が訪れるのだろうか。『破戒』の結末の「天気の好い日には、この岸からも望まれる小学校の白壁、蓮華寺の鐘楼、それも霙の空に形を隠した。丑松は二度も三度も振向いて見て、ホッと深い大溜息を吐いた時は、思わず熱い涙が頬を伝って流れおちたのである。橇は雪の上を滑り始めた。」という文章は、このようなことを私に想わせる。

 それでは、藤村自身は、部落差別問題の展望について、どのように考えていたのであろうか。1921年に有島武郎・森本厚吉・吉野作造らが創設した文化生活研究会の機関誌『文化生活の基礎』(1923年5月号)に掲載された談話記事で、こう語っている(43)。

 

   仮に今日の部落民が、もっと自由な空気を呼吸し得るやうになり、学校生活に

  於ても他の児童と同じやうに修学を楽しめるやうになり、其他種々な改善が行わ

  れるやうになったとしても、多くの部落民が真に解放されたと云ふ心持を持ち得

  るでしやうか。其処にはきっと結婚の問題が頭をもちあげてくるだらうと思ひま

  す。それにつけても社会組織の最も深い根柢が「性」にあることをしみじみ感じ

  ます。水平社の運動を想って見ると殊にその感じを深くします。「差別を撤廃せ

  よ」と叫ぶ部落民は、殊にその中にある新時代の青年達は、どう云ふ風にこの問

  題に対して行くでしやうか。私は部落民の解放といふことが、思ったよりも困難

  な、複雑なものであり、その運動の前途には根深い「性」の暗礁があって、なか

  なか楽観は出来ないと考へるもののゝ一人であります。

 

 2019年に三重県が行った「人権問題に関する県民意識調査」の結果がインターネットで報告されているが、そのなかの「あなたの身内の方に、結婚(縁談)の話があったときに、あなたの家族が相手に気づかれないように次のようなことを調べようとしたとすると、あなたはどのように感じますか。」という設問に対して、「同和地区の人であるかどうか」に関しては「調べるのは当然だ」「感じはよくないが必要だ」を合わせた割合は53.4%であった。また、「もし仮に、あなたのお子さんが恋愛し、結婚したいといっている相手が」「同和地区の人であれば、あなたはどのような態度をとると思いますか。」という設問については、「考えなおすように言う」「迷いながらも結局は考えなおすように言う」を合わせた割合は26.4%であった。このように、いまだに結婚の問題は楽観できるような状況とは言い難く、「身の素性」を問題視する意識は執拗に存在している。藤村の「私は部落民の解放といふことが、思ったよりも困難な、複雑なものであり、その運動の前途には根深い「性」の暗礁があって、なかなか楽観は出来ないと考へる」という予測は当たっていたといえるだろう。

 そうした中で、部落の現状はどうであろうか。今から30年ほど前に書かれたエッセイ「部落はいずこへ」(『部落解放』第182号、1992年6月)で、土方鐵は、部落外への転出者が増大している状況について「部落を離れて住みだすと、部落民であることを、隠す意識に囚われやすい。隠す意識がないまでも、沈黙を守りがちである。当然、子どもには教えない。」と述べ、また、部落外との結婚の増大についても「問題は、こうした夫婦は、部落の外に住むケースが、とくに多いという点である。しかも非部落民の側が、子どもの出自を隠そうとする傾向が強い。」と指摘している。『破戒』では丑松の父親がたどった道は「例外」として扱われていたが、今日ではその傾向は一層加速化して常態化しているものと思われる。

 このように、19―20世紀転換期における人権状況を見すえて藤村が『破戒』の中で描いた問題は、現代を生きる部落民にとっても、非部落民にとっても未解決のまま存続している。むしろ、グローバリゼーションが進行し、「様々なタイプのレイシズムがかつてなく執拗で凶悪であるだけでなく、忌憚なく述べるなら、過去に優に匹敵するような最盛期をこれから迎えようとしている」(44)と言われている今日において、『破戒』は「過去の日本の物語」としてではなく、「現代の世界の物語」として改めて読みかえす価値があるだろう。

 藤村が成し得なかった、人間の存在の尊厳を示すことで差別や不正義と闘うという物語こそ、いま痛切に求められているのである。

 

(1)W・E・B・デュボイス『黒人のたましい』(木島始/鮫島重利俊/黄寅

秀訳、岩波文庫、1992年、30頁)。

(2)志賀直哉「有島生馬宛書簡」(1906年4月9日。『志賀直哉全集』第

17巻、岩波書店、2000年、39頁、40頁)。

(3)部落問題研究所編・刊『水平運動史の研究』第4巻資料篇下、1972

年、247頁。

(4)高榮蘭「総力戦と『破戒』の改定」(『「戦後」というイデオロギー 歴史

/記憶/文化』藤原書店、2010年、232頁)参照。

(5)改定版における言い換えや削除の部分については、北小路健「『破戒』と

差別問題」(新潮文庫版『破戒』)に一覧表が掲載されている。

(6)福田雅子『証言・全国水平社』日本放送出版協会、1985年、47頁)

(7)北小路健「『破戒』と差別問題」(前掲書、488頁)。

(8)野間宏「『破戒』について」(岩波文庫『破戒』解説、1956年。『解放

の文学 その根元―野間宏評論・講演・対話集』解放出版社、1988

年、54頁)。

(9)朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』(朝日新聞社、1979年、1

72頁)。

(10)師岡佑行『戦後部落解放論争史』第2巻、柘植書房、1981年、15

2頁。

(11)平野謙「島崎藤村 人と文学」(新潮文庫版『破戒』、437頁)。

(12)飛鳥井雅道・土方鐵「対談・日本近代文学における被差別部落―『破戒』

の評価をめぐって」(『歴史公論』第4巻第11号、雄山閣出版、197

8年11月)。

(13)勝又正直「地図の上の主体―田山花袋『田舎教師』を読む」日本社会学

会編『社会学評論』49巻1号、1998年6月)

(14)前掲注(11)。

(15)北小路健「『破戒』と差別問題」『破戒』新潮文庫版、492頁、494

頁)。

(16)平野謙「新生」(初出『近代文学』1946年1―2月。『島崎藤村』岩

波現代文庫、2001年、160頁)。

(17) 同 「破戒」(初出『学芸』1938年11月。同上、40頁)。

(18) 同 「新生」(同上、178頁)。

(19)島崎藤村「突貫」(初出『太陽』1913年1月。『島崎藤村禅宗』第5

巻、筑摩書房、1981年収録)。

(20)高榮蘭「『破戒』における『テキサス』」(『「戦後」というイデオロギー』

藤原書店、2010年、95頁)。

(21)西川長夫「帝国の形成と国民化」(西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の

国際秩序と国民文化の形成』柏書房、1999年、17―18頁)参照。

(22)平野謙「『破戒』について」(新潮文庫版『破戒』452頁)。

(23)この点について、詳しくは黒川みどり『創られた人種 部落差別と人種

主義』(有志舎、2016年)を参照されたい。

(24) 同前。

(25)前掲注(8)。

(26)橋川文三『昭和維新試論』(朝日新聞社、1984年、96頁)。

(27)中島岳志・島薗進『愛と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英

社新書、2016年)。

(28)岩佐壮四朗「『国語科』の成立と『破戒』」(『日本文学』No.696、2011年)。

(29)竹沢泰子「明治期の地理教科書にみる人種・種・民族」(京都大学人文科

学研究所『人文学報』第114号、2019年12月、229頁)。

(30)橋川文三、前掲書、100頁。

(31)『破戒』が出版されてから4年後の1910年には幸徳秋水ら「異分子」を排除するために大逆事件が捏造されており、これに関して、色川大吉は「幸徳らが身をもって示したことは、天皇制は慈愛に満ちた無限抱擁の体系ではなく、異端の排除には手段をえらばぬ暴虐をなすものであり、その和気藹藹のかげに、人の心を凍らせるような酷薄さをかくしている矛盾体だという真実であった。」(『明治の文化』岩波書店、1970年、334頁)と指摘している。

(32)島崎藤村「山国の新平民」(前掲書、88頁)。

(33)高橋貞樹『被差別部落一千年史』(岩波文庫、1992年、255―256頁)。

(34)高榮蘭「総力戦と『破戒』の改定」(前掲書、201頁)参照。

(35)黒川みどり「差別のありようとそれへの向き合い 歴史学の視点から『破戒』を読む」(『部落解放』566号、2006年6月、41頁)。

(36)野間宏「『破戒』について」(前掲『解放の文学 その根元―野間宏評論・講演・対話集』53―54頁)。

(37)土方鐵『解放文学の土壌 部落差別と表現』(明石書店、1987年、9

0頁)。

(38)前掲注(12)。

(39))高榮蘭「総力戦と『破戒』の改定」(前掲書、204頁)参照。

(40)土方鐵、前掲書、93頁。

(41)前掲注(2)。

(42)川元祥一『部落の心が語られるとき』(明治図書、1977年、149―150頁)。

(43)島崎藤村「部落民の解放」(部落問題研究所編・刊『水平運動史の研究』第2巻 資料篇上、1971年、471頁)。

(44)エティエンヌ・バリバール「レイシズムの構築」(鵜飼哲、酒井直樹、テッサ・モーリス=スズキ、李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』以文社、2012年、269頁)。