【この記事の概要】 現在、私は、1977年10月に部落差別の問題を正面から取り上げることをテーマとして創刊された文芸雑誌『革』(当初の編集委員は野間宏、井上光晴、竹内泰宏、土方鐵、杉浦明平、川元祥一など)に、2020年9月から「解放文学の軌跡」という評論を連載しています。この評論は、部落差別の問題を追及して、日本と日本人を、その深部から捉えようとした近現代の文学作品を批評したもので、2024年3月発行予定の『革』第40号には「解放文学の軌跡(第8回)」の「野間宏と被差別部落―『青年の環』を中心に」が掲載されています。これまで紹介してきたブログの記事の多くは、この連載の下書きとして書いたもので、今後は、『革』連載の批評をブログで公開していく予定です。今回は、「解放文学の軌跡」の第5回にあたる島崎藤村「『破戒』をめぐる諸問題」(『革』第37号、2022年9月)の第3回目を掲載します。この評論の引用・転載は自由ですが、必ず出典を明記してください。

 なお、文芸誌『革』は、現在では部落差別のみならず、性的マイノリティ、災害避難民等々、さまざまな社会的排除の対象となっている人々や日本社会の差別構造等の問題を、小説、ルポルタージュ、評論、詩、俳句で表現した作品を掲載しています。申込先は「〒651―2202 神戸市西区押部谷町西盛584―1 『革の会』事務局 善野烺」です。

 

第二章 世紀転換期の文学としての『破戒』

藤村と丑松

 『破戒』に対する部落の人たちの受けとめ方には大きな違いが存在していたが、文学的な評価についても様々な意見が出されている。そうした中で、北小路健は「『破戒』には、たしかに差別小説としての一面がある。しかし、適切な解説とともに出版されるのであれば、むしろすぐれた反差別小説ということができるだろう」、「作者藤村の限界をも含めて、初版本は文芸としてもまた部落問題にとっても、重要な史的文献として、他に類を見ぬ価値にかがやくものであることはたしかだ。」(15)と述べているが、私にはこの評価がもっとも適切なものと思われる。以下、『破戒』の文学史的意義に関して考えていくこととするが、まずはその主要なテーマから見ていきたい。『破戒』執筆の動機については、「眼醒めたものの悲しみ」(前掲)の中で、藤村は次のように語っている。

 

 『破戒』の主人公は申すまでもなく、一人の若い部落民を書こうとしたものですが、小諸に7年も暮らしている間に、あの山国で聞いた一人の部落民出の教育者の話、その人の悲惨な運命を伝え聞いたことが動機になって、それから私がああいう主人公を胸に描くようになっていったのでした。あの小説に書いた丑松という人物の直接のモデルというものはなかったのです。しかし、私はああいう無智な人達の中から生れてきた、そうして、そういう中で人として眼醒めた青年の悲しみというものに深く心を引かれて、それから7年間の小諸生活にできるだけ部落民の生活というものを知ろうと心がけるようになったのです(同書、243頁)。

 

 藤村の実生活までを丹念に調べあげた平野謙は、藤村の生涯が父の座敷牢での狂死という「自己の血統と運命」との闘いであり、「自分が常人とは隔絶された宿業をになっている明瞭な自覚は、藤村にふかい恐怖を与えずにはおかなかった。いかにしてその宿業からのがれて、もとどおり一般社会につながりたいという切ない身悶えが藤村をとらえてはなさなかった。」(16)と述べている。藤村の人生に対する平野の深い洞察は特筆すべきものであるが、「その宿業からのがれて、もとどおり一般社会につながりたいという切ない身悶え」は、丑松の姿そのものである。こうしたことからすると、藤村は島崎家という旧家に流れる「暗くよどんだ血」の問題を、「血統」を理由に社会から排除されている部落民とを重ね合わせて、主人公の丑松を造形したのではないだろうか。

 それゆえに、平野が「『破戒』には恐怖(おそれ)、哀傷(かなしみ)、哀憐(あわれみ)などの言葉とならんで、眺め入る、泣くという言葉が随所につかわれているが、すべて藤村流の含みを持った一聯のヴォキャブラリィにほかならない。すなわち、藤村は一部落民の子の悶えを決して上から同情者として眺めてはいないのである。藤村は丑松に眺め入り、眺め入りつつ泣くことによって、その運命のはげしさに黙って抗議しているのである。」(17)と指摘している通り、藤村は差別の中を生きる部落民の不安、恐怖、屈辱、絶望や「告白」をめぐる葛藤を描くことができたのであり、『破戒』は部落の人たちによって「涙を流しつゝ読まれた」のであった。

 さらにまた、平野は、藤村の文学的生涯についても、「『春』から『家』を経て『新生』にいたる道は自己の宿命の陰冥な予感からその明瞭な自覚に到達する過程であり、『新生』から『嵐』を経て『夜明け前』にいたる道は、宿命の自覚からその遁走を試みつつ、それ自身宿命の浄化を結果した過程だが、そのながい文学道程はやはり藤村だけがたどらざるを得なかった道なき道にほかならない」(18)と述べている。丑松がフィクショナルな人物であったことからか、ここでは『破戒』を「藤村だけがたどらざるを得なかった道なき道」の中に位置づけていないが、実はこのような藤村文学における「自己の宿命」の「陰冥な予感」「明瞭な自覚」「遁走」「浄化」という「文学道程」は、『破戒』の丑松のたどった道のなかにすべて封じらこめられてあった。

 このように、藤村文学の出発点となった『破戒』は、「常人とは隔絶された宿業」から逃れたいという藤村自身の必死の願いを、主人公の部落民・丑松の中に投影させた作品であり、その主要なテーマとして設定されたのが、被差別者にとってはきわめて切実な「隠す」か「告白」かの選択の問題であった。身元が明らかになることが社会的な死につながるような時代の中で、いまだ全国水平社(1922年創立)も存在せず、部落=共同体からも切り離されて生きてきた部落青年が「告白」=「カミングアウト」に踏み切ろうとする葛藤と決意をリアルに描きだしているという意味で、また、現在においても差別社会の中を生きるマイノリティに鋭く突きつけられている「告白」=「カミングアウト」の問題を20世紀初頭に真正面から取り上げたという意味でも、『破戒』は画期的な作品であった。

 

世紀転換期の文学

 これまで繰り返し述べてきたように、『破戒』を読み解くためには、藤村の生涯や思想とともに、日露戦争前後の時代の状況との関連性を考える必要がある。『破戒』の出版から3年後に刊行された田山花袋の『田舎教師』(1909年)は、日露戦争に日本全土が沸き立つ中で立身出世の夢も破れ、国家の大事に加わることもできず、「遼陽陥落の日の翌日」に結核でひっそりと死んでいった代用教員・林清三の煩悶の日々を描いたものであるが、そこからは日露戦争の期間を通して、戦争と愛国心による国民統合が強力に進んでいく状況が見事に映し出されている。

 『破戒』を執筆していた当時の内幕を描いた短編『突貫』の中で、藤村も「『万歳――『万歳』――』/長い行列が雪の中を遠ざかつて行くのを聞きながら、私は自分の眼にあることを紙に写して見た。私は戦争を外に見て、全く自分の製作に耽るほど静かな気分には成れない。私の心は外物の為に影響され易くて困る。私の始めたことは私の心を左様静かにさせては置かないやうなものだ。」(19)と書き記しているように、このような日露戦争下の時代相は藤村自身にも確実に大きな影響を及ぼしていた。

 『破戒』における丑松の「テキサス」行きの問題も、そうした時代の状況が刻みつけられている。この点について、丑松が誘われた大日向の新事業(農業)の計画が「テキサス」の「日本村」であったことに注目した高榮蘭は、その当時本格的渡米ブームの中で「テキサス」が「資本をもった集団移住」の対象であり、「テキサス」行きが「『平和的』日本膨張として意味づけられていた」として、「丑松の最後の飛躍が『「日本」という国家からの脱出』を意味するとはいえないだろう。なぜなら『テキサス』は『「国家」という堅固な秩序体系とは無縁』な場であるどころか、まぎれもなく『新日本』建設の場にほかならなかったからである。」(20)と論じている。

 このような高榮蘭の指摘は、「テキサス」行きと日露戦争前後の日本帝国の植民地領有への欲望との関連を明らかにした注目すべきものであるが、この「移民」の問題以外にも、『破戒』には19―20世紀転換期における差別意識のあり様、鉄道網の整備と地方の変容、教育制度の確立、地主=小作制度の強化などが映しだされている。その意味で、『破戒』は世紀転換期の日本社会をみすえた文学として、改めて読みかえす必要があると思う。

 たとえば、鉄道網の整備に関しては「信越線の鉄道に伴う山上の都会の盛衰、昔の北国街道の栄花、今の死駅の零落―およそ信濃路のさまざまな、それらのことは二人(丑松と猪子連太郎―宮本)の談話に上った。」(147頁)と描かれ、資本主義体制の急速な発展とアジア大陸への進出のために、日清戦争の直前には鉄道施設法が公布され(1892年)、日露戦争の直後には鉄道国有法が公布されて(1906年)、全国の鉄道網がほぼ完成されていく中で、旧街道沿いの繁栄していた宿場がさびれ、鉄道沿いの町々が繁栄する状況が浮きぼりにされている。こうした地方の変容は、鉄道網の整備による中央と地方の分業、地方の周辺化がもたらしたものであるが(21)、この時期に強化される地主=小作制度の実態についても、毎年小作人が使用料としておさめる「年貢」(米)をめぐる風間敬之進の妻、その小作の手伝いをする音作と地主とのやり取りや地主への酒の接待などを通して具体的に描かれている(295―301頁)。

 とりわけ、丑松が勤務する小学校教育の状況についてはさらに詳しく描かれ、1890年10月の「教育勅語」と同時に公布された「小学校令改正」により設置された郡視学の小学校視察について、「その日の郡視学と二三の町会議員とか参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許ずつ見た。郡視学が校長に与えた注意というは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホーム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件であった。」「この校長に言わせると、教育は即ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。」(21頁)と、郡視学の監督下に置かれた小学校の状況と郡視学が大きな権力をふるっていたことが明らかにされている。

 この郡視学の「参校」の場面の後、視察を終えて応接室に入った郡視学に対して、「教育基金令」(1890年公布)という勅令によって金牌を授与された校長が「まあ、私が直接に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向かって、まさかそんなことが言えもしますまいが――というのは、教育者が金牌などを貰って鬼の首でも取ったように思うのは大間違だと。(略)瀬川君などに言わせたら価値の無いものでしょう。然し金牌は表章です。表章が何も有難くは無い。唯その意味に値打がある。ははははは、まあそうじゃ有ますまいか」(27頁)と、丑松への不満を漏らし、これに続いて郡視学と校長の間で次のような重要な会話が交わされている。

 

   「そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有そうなものです 

  がなあ」と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。

   「方法とは?」と校長も熱心に。

   「他の学校へ移すとか、後釜へは――それ、君の気に入った人を入れるとか

  さ。」

   「そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧くやら

  ないと――あれで瀬川君はなかなか生徒間に人望が有ますから」

   「そうさ、過失の無いものに向って、出て行けとも言われん。ははははは、余

  りまた細工をしたように思われるのも厭だ」と言って郡視学は気を変えて、「ま

  あ私の口から甥を褒めるでも有りませんが、貴方の為に必定お役に立つだろうと

  思いますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいという積りだ。一

  体瀬川君は何処が好いんでしょう。どうしてあんな教師に生徒が大騒ぎするんだ

  か――私なんかにはさっぱり解らん。他の名誉に思うことを冷笑するなんて、ど

  ういうことがそんならば瀬川君なぞには難有いんです。」

   「先ず猪子連太郎あたりの思想でしょう。」

   「むむ――あの穢多か」と郡視学は顔を渋める。

   「ああ」と校長も深く嘆息した。「猪子のような男の書いたものが若いものに

  読まれるかと思えば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年

  の身をあやめる原因です。その為に畸形の人間が出来て見たり、狂(きちがい)

  見たような男が飛出したりする。ああ、ああ、今の青年の思想ばかりはどうして

  も吾儕に解りません。」(27―28頁)

 

 このような丑松排除の話は、「天長節」の儀式の後にも行われており、校長は郡視学の甥にあたる若い教師・勝野文平に対して「瀬川君だの、土屋君だの、ああいう異分子が居ると、どうも学校の統一がつかなくて困る。(略)難物は瀬川君です。瀬川君さえ居なくなって了えば、後は君、もう吾儕の天下さ。どうかして瀬川君を廃して、是非その後へは君に座って頂きたい。実は君の叔父さんからも種々御話が有ましたがね、叔父さんもやっぱりそういう意見なんです。何とか君、巧い工夫はあるまいかね。」(92頁)と話している。

 注目する必要があるのは、丑松に対する身元暴きが始まる以前に、こうした丑松排除の話が持ち出されている点である。校長や郡視学が問題視しているのは、天皇が発した法令(勅令)にもとづく金牌の授与に対して、「教育者が金牌などを貰って鬼の首でも取ったように思うのは大間違だと」というような丑松の「不健全」な考えであり、それが郡視学や校長など体制側の思想とは相容れぬものであったからだった。そして、この場面を作品の最初の方に置き、また、最後の方(第二十一章)でも郡視学と校長が「時に、瀬川君のこともいよいよ物に成りそうですかね。」「瀬川君のかわりにはあの甥を使役(つか)って頂くとして、手の明(あ)いたところへは僕が適当な人物を周旋しますよ。まあ、すっかり吾党で固めて了おうじゃ有りませんか。」(369頁)というような会話を交わす場面を置いていることからすると、藤村は学校が差別と「異分子」排除の空間であったことを強調しようとしていたのは間違いないだろう。

 藤村に対しては、「底辺としての部落民を主人公にえらびながら、ついに撃つべき封建のヒエラルキーをそのものとしてよく認識しえない。」(22)という批判があるが、少なくとも部落差別を利用して丑松を排除しようとする校長や郡視学の実態をリアルに描き出したのは事実であり、そこにはそうした権力者に対する藤村の激しい怒りや憎しみが存在していたといえるだろう。

 

「主座教員」としての丑松

 日露戦争の勃発した1904年の春に稿を起し、日露戦争後まもない1905年に脱稿した『破戒』は、丑松が蓮華寺へ引っ越しの日程を決めに行く10月26日(第一章)から、「進退伺」を出して飯山を去る12月3日(第二十三章)までの物語である。年代は記されていないが、小学校令が改正され、丑松の担当していた国語科が設置されたのが1900年で、師範学校を出た丑松が飯山の小学校に来てから「足掛三年目」であること、1904年2月に開戦した日露戦争の記述がないことから、1903年のことと思われる。この時の丑松は「漸く二十四」で、勤務先の飯山の小学校では、国語、地理を担当するとともに、教科以外にも、後述するように、「主座教員」として重要な役割を担っている。その丑松の生立ちとは、次のようなものである。

 瀬川丑松は、見たところは「皮膚といい、骨格といい、別に賤民らしいところがあるとも思われない」が、「小諸の向町(穢多町)」の生まれであった。父親は、明治維新までは「40戸ばかりの一族の『お頭』と言われる家柄」で、祖先は朝鮮、中国、ロシアからの「異邦人の末」ではなく、「古の武士の落人」という「血統」であった。父親は「貧苦と零落との為に小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかった」。母とは移住する前に死別していた。

丑松は「小諸の向町」に居た「七つ八つの頃まで、よく他の子供に調戯(から

か)われたり、石を投げられたりした」が、「(小県郡の―宮本)根津村の学校へ通うようになってからは、もう普通の児童で、誰もこの可憐な新入生を穢多の子と思うものはなかった」。その後、長野の師範学校に入学するが、「多くの他の学友と同じように、衣食の途を得る為で―それは小学教師を志願するようなものは、誰しも似た境遇に居るから―」であった。

 この師範学校への入学のために親元を離れる時、丑松は、父親から自らの「血統」と、「罪悪の為に穢れたような家族ではない」ことを教えられ、「世に出て身を立てる穢多の子の秘訣」として「身の素性を隠すより他にない」、「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅(めぐりあ)おうと決してそれとは自白(うちあ)けるな、一旦の憤怒悲哀からこの戒を忘れたらその時こそ社会(よのなか)から捨てられたものと思え」と命じられた。父親のこの戒の背景には、「自分で思うように成らない、だから、せめて子孫は思うようにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒(どうか)子孫に行なわせたい。」という思いがあった。そして、父親は「丑松に一生の戒を教えただけでなく、自分もまたなるべく人目につかないように」と人里遠い山の奥に隠れ住んだ。

 その後、師範学校に入学した丑松は、父親とは「親子はなればなれ」となり、「六七年の間は一緒に長く居て見たこと」はなかった。そして、「正教員という格につけられて、学力優等の卒業生として、長野の師範校を出たのは丁度二十二の年齢の春。社会へ突出される、直に丑松はこの飯山に来た。それから足掛三年目の今日、丑松はただ熱心な青年教師として、飯山の町の人に知られているのみ」であった。飯山の小学校における「席順」は、「丑松は首座。生徒の人望は反って校長の上にある程」、次が師範学校以来の友人の土屋銀之助、「第三席」が「検定試験を受けて、合格して此頃新しく赴任してきた正教員」の勝野文平であった。「首座」とは「首座教員」(88頁では「主座教員」と表記されている)のことで、現在の教頭のような立場であった。

 このような丑松の造形は、藤村が保持していた次のような部落観が関係していた。藤村は、『破戒』を出版してから3カ月後にエッセイ「山国の新平民」(『文庫』1906年6月号。塩見鮮一郎編『被差別小説傑作集』河出文庫、2016年収録)を発表し、部落民を「開化した方」と「開化しない方」に分け、「開化した方」は「容貌も性癖も言葉づかいなども凡ての事が殆んど吾々と変わる所はない」が、「開化しない方」の「野蛮人でも下等の野蛮人」は容貌、性格、顔の骨格、皮膚の色が「違ってる」と書いていた(同書、93―94頁)。

 多くの人が指摘しているように、こうした皮膚の色などの身体的特徴で部落民を分類する見方は、当時は一般的であった部落に対する人種差別的な偏見に藤村もまた縛られていたことを示している(23)。しかし、そのような時代の制約以上に、自らのいのちを精いっぱいに生きた部落民衆の世界にまで人間的共感の錘をおろしきれなかったことに、作家藤村の限界を見る必要があると思う。このこととも関連するが、丑松の出発の時に手づくりの「草鞋一足、雪の爪掛け一つ」を贈った蓮華寺の寺男の庄太を「庄馬鹿」「愚かしい目付」、病身の風間敬之進に「万一のことか有ったら一切は自分で引き受けよう」と申し出る「百姓の音作」も「音作は愚かしい目付をしながら」などと表現しているように、貧困にあえぎ、学問を身に付けられる環境を奪われている人たちを「無智」「野蛮」と裁断する、文明的な価値観に囚われていたことも見逃してはならないだろう(24)。

 それゆえに藤村は、丑松が師範学校を「学力優等」で卒業した知識人で、それから幾年も経っていないのに「主座教員」の地位に就いた人物、すなわち、部落民の「野蛮」を克服し、「文明化」された人物として設定したのだった。さらにまた、そうした部落ではエリートともいうべき人間を育てた父親にも、「お頭」という家柄と昔の「武士の落人」という日本人の「血統」という出自、「貧苦と零落との為に小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかった」という「文明化」への渇望などの条件を付与しなければならなかったのであった。

 先にも見たように、丑松に関しては、「部落民としての肉体を持っていないし、心理も持っていない」とよく語られている。しかし、『破戒』は「常人とは隔絶された宿業」から逃れたいと願う藤村自身の葛藤を描くことを主眼とした作品であり、平野謙が指摘している通り、そのためには「相手が部落出の知的な青年であったことがぬきさしならぬ与件として存在しなければならなかった」(25)。このように、藤村には最初からリアルな部落民像を描き出そうという意図はなく、丑松は「部落民としての肉体を持っていないし、心理も持っていない」という批判は的を射たものとはいえないだろう。

 こうして父親に託された立身出世の夢を叶えた人物として造形された丑松は、日露戦争に日本全土が沸き立つ中で代用教員として立身出世の夢も破れ、国家の大事に加わることもできず、煩悶する日々を重ねながら、結核でひっそりと死んでいった田山花袋の『田舎教師』の主人公・林清三とは対照的である。橋川文三は、明治中期以降の青年がおかれた状況について、「一つは帝国主義・資本主義社会のイメージに同化しようとする『成功青年』の傾向と、もう一つは自己内心の衝動に沈潜しようとする『煩悶青年』の傾向」(26)とに分類しているが、そうした点から見れば丑松は「成功青年」の部類に位置づけられるだろう。

 そのような丑松は、「首座教員」として学校における行事でも次のような役割を担っていた。「さすがに大祭日だ。町々軒は高く国旗を掲げ渡して、いずれの家も静粛にこの記念の一日を送ると見える。」(86頁)と、11月3日の天長節(1873年に明治天皇の誕生日を祝って国家の祝日として設定)を祝う町の光景を簡潔に記された後、小学校における「天長節」の儀式を次のように詳しく描かれている。

 

   国のみかどの誕生の日を祝うために、男女の生徒は足拍子を揃えて、二階の式 

  場へ通う階段を上った。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四

  年を、いずれも受持々々の生徒を引き連れていた。退職の敬之進は最早客分なが

  ら、何となく名残が惜まるるという風で、旧の生徒の後に随いて同じように階段

  を上るのであった。(87頁)

        (略)

  「気をつけ」

   と呼ぶ丑松の凛とした声が起った。式は始まったのである。

   主座教員としての丑松は反って校長よりも男女の少年に慕われていた。丑松が

  「最敬礼」の一声は言うに言われぬ震動を幼いものの胸に伝えるのであった。や

  がて、「君が代」の歌の声の中に、校長は御影(「御真影」。天皇や皇后の肖像

  写真―宮本)を奉開して、それから勅語(教育勅語―宮本)を朗読した。万歳、

  万歳と人々の唱える声は雷のように響き渡る。その日校長の演説は忠孝を題に取

  ったもので、例の金牌は胸の上に懸って、一層その風采を教育者らしく見せた。

  「天長節」の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあったが、これはまた場馴

  れているだけに手に入ったもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、こういう一場

  の挨拶ですらも、人々の心を酔わせたのである。

   平和と喜悦とは式場に満ち溢れた。(88―89頁)

 

 こうした「天長節」の儀式は、教育勅語の翌年に制定された「小学校祝日大祭日儀式規定」にもとづいて進められていた。宗教学者の島薗進は「1890年に教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば『皇道』が、国民の心と体の一部になったのです。」(27)と語っているが、そのような政治的意図が存在していた学校での行事や集会で丑松は「主座教員」としての任務を忠実に遂行していたのだった。

 さらに注目したいのは、丑松が担当していた教科が「国語」と「地理」であったということである。「国体」思想を貫徹させるために教科の中でも特別の地位をもっていた「国語科」は、天皇制国家の「臣民」を創出する課題を担って1900年に誕生したものであり(28)、「地理科」も日清戦争(1894―1895)に勝利した後の明治30年代、「文明優劣に段階分けするという明治初期に輸入した学知を、日本帝国内におけるマイノリティ支配の正当化のための学知へとして転換して」いた(29)。

 『破戒』が書かれていた1900年代初期の日本について、橋川文三は「天皇の権威を頂点として精密な機構化を完成した帝国であり、その帝国内に生きんとする限り、自らその帝国の機構の運転者となるか、さもなければ帝国の生活運動とは無関係に、自己の『私』をまさしく私生活内の世わたりとして磨きあげるか、もしくは官能ないし手製の信仰の中に、その『私』をとじこめるしかないという状態であった」(30)と述べている。小学校の行事や教科において重要な役割を担っていた丑松は、いわば「自ら帝国の機構の運転者となる」道を歩んでいたといえるだろう。しかし、学校が差別と「異分子」排除の空間であることを描き出した藤村であったが、紀元節の儀式に関して「平和と喜悦とは式場に満ち溢れた」と表現しているように、時代の制約とはいえ、そのような学校における差別と「異分子」排除が天皇制国家の本質を反映したものであることに根本的な疑問をもつことはなかった(31)。

 このように見てくると、これまで部落解放運動の観点から議論されてきた丑松の卑屈な告白や「テキサス」行きの問題も、「帝国の機構の運転者」ともいうべき道を歩んできた丑松という面から再解釈する必要があるのではないだろうか。