戦争協力の問題をめぐって

 松田喜一が主導した経済更生会については、たとえば、中村福治は「野間らは人民戦線運動敗北後の困難な中、運動再建の手がかりがつかめない状況下に、経済更生会こそが人民戦線的組織であると考え、それが皇民運動、日本建設協会と結合し、それらの国家主義的団体の活動の一環に組み込まれ、高度国防国家を部落で支える機関に“上昇転化”してもなおかつ人民戦線的形態であると思いこんでいるのである。」(1)と指摘している。このような批判について、針生一郎が次のような反論を行っている。

   だが、戦争中の大衆運動が何らかの形で戦争協力の偽装および、その二重性の 

  相克のうちに展開されたことは否定できない。野間は、戦後のエッセイだが、

  「大阪の思い出」(『部落問題研究』1949.10―1950.12)で、松

  田喜一が水平運動の差別糾弾の限界を指摘して、部落内の最貧層である靴修繕業

  者の組合をはじめ職業別組合をつくるとともに、高利貸支配、親分子分制、冠婚

  葬祭に莫大な出費を強要する因習などを一掃し、多くの人の経済生活を立て直し

  て感謝されたことをつたえている。そこに『人民戦線運動の新しい展開』をみた

  のは、野間にとってまぎれもない真実だったのだ。だからこそ、1940年に

  『三人』に掲載した短編『青年の環』を発端として、その後三十年かかってよう 

  やく完成した同名の大長編の結末に、戦時下大阪部落民のうちにおこったコミュ

  ーン的蜂起のフィクションも描きえたのだろう。むろん野間は松田、朝田善之

  助、北原泰作ら当時の指導者たちの業績を認識する同時に、「これらの人たちに

  対する厳しい批判なしには部落解放運動は一歩も前進することはないだろう」と

  前掲論文の末尾につけ加えている以上、大政翼賛、国策順応的な一面をみおとし

  てはいない。(2)

 針生のこの指摘は、「獄中非転向」を唯一最高の規範とするような善悪正邪の価値判断に基づく言説ではなく、その時点での当事者の認識の地平から考えようとするものであり、共感がもてる。藤田省三が指摘しているように、1940年以後は偽装転向のみが非転向の可能な形になったのであり(3)、「戦争中の大衆運動が何らかの形で戦争協力の偽装および、その二重性の相克のうちに展開されたことは否定できない」。

 何よりも松田が主導した経済厚生会の活動は、戦時下において重要な軍事物資である皮革に対する経済統制が強化され、零細経営を特徴とする部落の皮革産業が大打撃をうけ、生活は困窮を極めていたなかで、そのような部落民衆の深刻な状況を打開するために取り組まれたものであり、「人民戦線的組織」という運動論が先にあったものではなかっただろう。おそらく、松田を突き動かしていたものは、被差別の状況を強いられている民衆の苦しみに対する共感的連帯と、それにもとづいた部落解放運動の指導者としての使命感と責任感ではなかったか。経済更生会に対する批判には、このような松田の心の奥底にあるものを深く理解しようとする視点が欠落しているが、野間自身も、「人民戦線運動の新しい展開」というイデオロギー的な視点以上に、この点をどう見届けていたのかは検証する必要があると思う。

 さらにまた、針生は、「『松田、朝田善之助、北原泰作ら当時の指導者たちの業績を認識する同時に、これらの人たちに対する厳しい批判なしには部落解放運動は一歩も前進することはないだろう』と前掲論文の末尾につけ加えている以上、大政翼賛、国策順応的な一面をみおとしてはいない。」という重要な指摘を行っている。しかし、この「末尾」の記述とは、正確には「ところがその(当時の指導者たちの―引用者)価値をこれらの人たちの近辺にいる人たちははたして知っているだろうか。殊に青年は知っているだろうか。これらの人たちに対する厳しい批判なしには部落解放運動は一歩も前進することはないだろう」というものであり、ここから「大政翼賛、国策順応的な一面をみおとしてはいない。」と言えるのかどうか、それに加えて、「これらの人たちに対する厳しい批判」と、その人たちと連帯していた自分自身への厳しい批判を野間が行ったのかどうかは、どうしても問われねばならないだろう。

 こうした諸問題が、戦時下の1939年の梅雨どきから、約3カ月間の出来事が扱われている『青年の環』でどのように表現されているのか、あるいは表現されていないのかを追究することは、『青年の環』の批評にあたって不可欠な課題といえるだろう。

 

(1)中村福治『戦時下抵抗運動と『青年の環』』(部落問題研究所、1986年、

   185頁)。

(2)針生一郎「戦争中の作家形成過程を市中心に」(前掲書、15頁)。

(3)『藤田省三著作集2 転向の思想史的研究』(みすず書房、1997年)。