戦時下の野間宏の活動をめぐって

 先に触れた「部落問題と文学」(『文学』1959年2月号)という座談会のなかで、松本清張が「野間さんはいま部落解放同盟の中央委員をなさっているのでしょう。そのきっかけはなにかあったのですか。」と問うたのに対し、野間は「それは僕が戦前からいっしょに運動してきたからですよ。」(1)と答えている。その部落解放運動について、大西巨人は「部落解放運動が現実的に部落解放同盟によって主に中心的に担当推進せられてきた、という事実と、しかし部落解放運動と部落解放同盟とは、まったくの同一物ではない、という事実とを確認することが、『部落解放の課題を名実ともに「国民的課題」に高める』ために決定的な当為でなければならない。」(2)と発言し、部落解放運動を「部落解放同盟による運動」として狭めて理解している従来の見方への異議申し立てを行った。

 今日においても、「部落問題を語る資格」をめぐる議論が存在しつづけていることを考えるならば(3)、部落差別問題を差別する側の解放の問題として捉えていた野間が、差別する側、差別される側という境界をどのように乗り越えようとしたのか、また、部落解放運動と部落解放同盟とを「同一物」とするような見方から部落解放運動を相対化する方向へと転換していったのかどうかを見定めることは極めて重要な課題である。この点については、後に詳しく追究することとして、野間と『青年の環』に対する批判は、その「戦前からいっしょに運動してきた」こと、すなわち、1940年前後の野間の活動と松田喜一が主導し経済更生会の評価をめぐってであった。ここでは野間の戦時下の軌跡をおさえたうえで(4)、その時期の活動めぐる議論について見てみたい。

 1938年4月に大阪市役所社会部福利課福利係に配属された野間は、同年11月24日に開かれた全国水平社主催の「地方改善国民融和懇談会」に大阪市福利課の職員として出席、その5カ月後の1939年4月11日の浪速区経済更生会第二回総会に、来賓として大阪市役所から福利課長とともに出席した。1940年4月3日に開かれた「部落厚生皇民運動全国協議会準備会」には松田喜一、朝田善之助ら32人とともに出席し、つづいて8月28日の「部落厚生皇民運動」第一回全国会議にも「浪速区経済更生会中堅幹部養成講習会講師」という肩書で出席し祝辞を述べた。このほか、浪速区経済更生会以外にも、西成区経済更生会(4月30日)、北区経済更生会の総会(6月12日)にも「福利係野間書記」として出席していた。

 翌年の1941年12月10、11日には、奈良県橿原市で開かれた紀元2600年奉祝全国融和団体連合大会に出席、厚生大臣の融和事業の徹底の方策に関する諮問に関する答申を討究する研究委員に選ばれ、それと同時に文部大臣の融和教育の徹底の具体的方策に関する答申案の起草委員にも選ばれている。さらに、この年には、山本鶴男ら左翼転向者によって創立された翼賛団体・日本建設協会にも参加、これに朝田善之助ら部落厚生皇民グループが所属していた。

 その後、野間は1942年1月に戦時応召となり、中国江蘇省に出征、2月中旬にフィリピンに向い、パターン、コレヒドール戦に参加。5月、マラリアにかかりマニラ野戦病院に入院、10月、帰国して原隊に復帰し、1943年の7月まで原隊の事務室書記をつとめるが、治安維持法違反の容疑で逮捕されて陸軍刑務所に入所。同年末、転向手記を書かずして転向を表明、軍法会議で懲役4年執行猶予5年を宣告され監視付きで内地に戻っていた原隊に復帰した。  

 このような戦時下の野間の活動に対しては「右翼化し、自己合理化し、完全転向したもの」という批判が出されているが、これについて、尾末奎司は、次のように反論している。

   野間を作家としても認めず『青年の環』を売文の書とする批判者は、この40

  年前後の野間を、右翼化し、自己合理化し、完全転向したものとして、あらゆる

  資料を探し集めて、「実証」しようとしている。なるほど、集められた資料の字

  面の上で、たしかに転向の一面は実証されたかもしれない。だがそれが、野間の

  変節、自己合理化、『青年の環』の(したがって作家の)全面否定にまで及ぶと

  き、その『実証』には、その字面の資料(ほとんどが新聞記事、大会や会合での

  発言や祝辞、挨拶の類)が一定の状況の制約の中で生じる、その素の、生きた人

  間の肉体が、肉体において生きる人間が見落とされ、あるいは見捨てられ、論理

  の過程に欠落している。(5)

 ここで尾末が重視しているのは、転向表明して陸軍刑務所出所後の厳しい監視下のもとで野間が書いた「わが身を忘れる忽れ、昭和18・12・16日を忘れる忽れ。この日を忘れることは、お前が、自己の全身を忘れることであり、自己の中の、隠された力を、忘れ去ることである。」(6)という「日記」のなかの記述である。その「隠された力」とは、転向を強いた国家の強大な圧力に対抗する「反逆の力」(7)のことと思われるが、ここからは理不尽に自由が侵害されている時代の中で、表面上はそれに屈しても、心の中の自由だけは決して手放さないという強い決意が読み取れる。転向の是非を測る照合基準について、鶴見俊輔が「非転向の不毛な固執を避けて、しかしまともな人間として現代に生きてゆこうという考え方」(8)をあげているように、野間は、人間の道からの離脱を頑強に拒否することで時代や状況に抗おうとしたのだった。 

 このように、さまざまな資料や文献のみに依拠する「実証」からは、困難な状況下にある他者を内在的に理解する感覚が生れにくく、尾末が指摘している通り、人間にあってもっとも人間的なものである「隠された力」が「見落とされ、あるいは見捨てられ、論理の過程に欠落している」のは明らかといえるだろう。

 

(1)『文学』1959年2月号、169頁。野間は、1949年4月30日に開か

   れた部落解放全国委員会第4回大会でも、「本部推薦」で「中央委員」に選出

   されている(『解放新聞』第18号、1949年6月15日)。

(2)大西巨人「部落解放を『国民的課題』にする一つの有力有効不可欠な道」

   (『朝日ジャーナル』1988年8月5日号)。

(3)詳しくは黒川みどり「水平社百年から今へ―普遍的人権を求めて―」(『社会

   文学』第58号、2023年8月)を参照されたい。

(4)以下の戦時下の野間の活動については、金静美『水平運動誌の研究【民族差別

   批判】』(現代企画室、1994年)、尾末奎司「解説」(前掲書、1078

   ―1080頁)、尾西康充「野間宏『青年の環』素描―融和運動に託されてい

   た「イデオロギー的機能」とは何か」(『三重大学日本語文学』32号、20

   21年6月)を参照。

(5)尾末奎司「解説」(前掲書、1068頁)。

(6) 同 上、1071頁。

(7)先にも触れたように、部落を見る場合も、野間はこの「反逆の力」を重視して

   いた(吉田永宏の指摘(「野間宏と部落問題(一)」(『関西大学人権問題研 

   究室紀要』54巻、2007年7月、19―20頁)。

(8)鶴見俊輔「国民というかたまり埋めこまれて」(鶴見俊輔・鈴木正・いいだも

   も『転向再論』平凡社、2001年、30頁)参照。