高度経済成長下の地域開発
これまで見てきたように、竹内泰宏の長編小説『人間の土地』の主題の一つは、「部落といわゆる高度成長社会の関連を、具体的に土地開発を支えている長期資金の実態との接点としてえがきだすこと」(1)であった。須山のかつての同僚で、出世コースにのって現在はМ信託銀行の信託部の課長になっている樫村は、高度経済成長下の国土開発、地域開発における土地投資の必要性について、須山に次のように説明していた。
『・・・いいかね、君、日本列島にネットワーク状に高速道路プロジェクトを
つくる。新幹線をひろげて、全国主要都市からの“日帰り圏”に置くことによっ
て、なにが得られると思う?いや、わかりやすく言おう、どういうふうに土地事
情が変わってくると思うかね?交通事情のために生じる土地格差がなくなるとい
うことだ。そのとき過疎地帯というものはなくなり、山のなかの現在坪二千円の
土地が、都会近郊の坪二十万円の土地と同じによる。この十年、オリンピック、
大阪の万国博、新全総、列島改造計画と、政府もわれわれの味方だ。おまけに民
生向上という合意を得るのに都合のいい大衆向けの顔もできる。土地買いの利潤
が保障される危険(リスク)のない投資とはこういうことで、そのためには高い
レベルのいろんな力の協力が必要なのは言うまでもない。なにも一会社や一企業
で土地を持っている必要はない。開発センターとかいろんな名の、自治体や企業
をふくんだ団体や法人をつくっておいてそれをパイプにすればいいんだ・・・』
(上巻163頁)
樫村が語っているように、1969年からはじまる「国土空間全体を新幹線や高速道路の建設によってネットワーク化し、大規模プロジェクトで地方をくまなく開発していこう」(2)という政府の新全総(新全国総合開発計画)にもとづいた開発計画には、膨大な資金が開発会社、鉄道、住宅、観光などの開発プロジェクトに投入されており、また、政府、地元自治体、個人、企業の間を仲介することによって自らの政治的影響力を確保しようとする政治家が介入するケースも少なくなかった。このように『人間の土地』は、国の開発政策と開発利権の構造を明らかにしたうえで、開発の名のもとに破壊されていく村と被差別部落(以下、部落)との関連について、渡辺住職に次のように語らせている。
生活のために欠くことのできない先祖伝来の土地を、いくらかの紙幣と引き換
えにみすみす買いとられていく以外ない巧妙な罠に、この村がうまいことかかっ
ていくというこの有様が起こりうるわけがあるだろうか?事実は、この土地で
日々起っているように騒動しい都会の方からやってくるコンクリート・ミキサー
車とブルド―ザで何百年も耕した土地や、河沿いに丹念に仕上げた道路を惜しげ
もなくたたき壊し、かけがえのないこの環境をこうもあっさりと、だれの手でそ
うなっていくのか住んでいる人間自身がよくわからずに手渡し、破壊し、気がつ
いたときには鉄と石と充満するガスと擦り切れたレコードの溝の奏でる音楽のよ
うな月並みな文化で身も心も蹂躙され、傷めつけられていくままにされているの
である。・・・しかも村の連中はあの中州部落の住民を追い払い、下州と堀の内
の部落に貫通道路と下水路をつくる形でかれらを犠牲にしての新観光計画の青写
真を仕上げているのだ・・・。(:下巻77頁)
このように、先祖伝来の土地の喪失や長い年月をかけて形成されてきた環境が破壊されていく状況に加えて、開発によって蹂躙されていく村と、その村によってさらに犠牲にされている部落との重層した関係にまで踏みこむことで、この作品の主題である「企業・政党・政治・社会生活・家庭生活のあらゆる場所をつらぬき、そのことを意識している者も意識していない者もふくめて、現実には部落差別とその犠牲を足もとにおくことでその再生産と『高度成長』を維持している日本社会の重層構造」(3)を浮かびあがらせようとしたのだった。
土地所有と部落差別問題
中上健次は「土地所有が部落問題の大きな要素である」と語っているが、この作品でも『人間の土地』というタイトルが示すように、土地所有の問題が大きなテーマとなっている。
清水映子の祖先にあたる「清水新吾という中世の武将が、武田から織豊へと在地武士にとっての権力の移り変りの激しいなかで、高原の土地では自分の土地というもの、したがって自分の運命をわが手に握るということができず、川下のN市へ落ちていった」という話を渡辺住職から聞いた須山は、「自分で開墾し、自分で生きられる土地を求めてはるばるN市まで落ちていって町をひらき、しかしそこでも同じものぶつかったにちがいない男・・・・。この地方ではじき出され、土地を求めて出ていった清水新吾の求めていたものは、自分の土地そのものよりというよりも、いやそうであると同時に、その内実は自分で自分の運命を決定することができるような環境であり、生き方ではなかったのか。」(下巻49―50頁)と考える。
一方、須山からN市へ行って調べた清水新吾のことを聞いた渡辺住職も、「あの須山という男の話では、清水新吾はN市へ行ってからもふたたび蜷川氏という荘園守護者の旧勢力と出遭ったようだが、清水川の川筋に沿った寺領の多いこの土地でも、荘園制と、武士の領地と、両方からしめ出され、両方から労働と生存権を奪われ、ひるのように生き血を吸われながら生涯を生きそして死んできた人々がいる・・・――中州、下州、上州、淀、新田、堀ノ内、塔ノ沢など清水川の上流から下流にいたる高原の土地に散在する部落民たちが、戦後二十五年もたっても依然として残る隠れた差別の世界を生きている」(下巻76頁)ことを想い浮かべる。
そのような「労働と生存権を奪われ、ひるのように生き血を吸われながら生涯」を送ってきた典型的な人物として描かれているのが、渡辺るい殺害の犯人にされた下州部落出身の下川新造である。
新造が少年時代を過ごした清水川の河川敷の部落には、雨漏りのする掘立小屋
に十三軒ほどの家族が住んでいたが、そのうち形だけでも田畑を持っているのは
たった二軒で、あとの家族はその二軒の土地持ちの家から畠を借りたり、その口
ききで船頭の仕事をもらったりして暮らしていたのである。新造の父親はそのな
かのわずかな土地持ちの戸主だったが、もう一軒の河川敷の八割の土地をもった
大きな土地持ちの戸主といつもいさかいをしていたのだった。その上、新造の父
親とその兄弟との仲も悪かった。父親はそのもう一軒の土地持ちやかれの兄弟た
ちと、小さな畑地の使用権をめぐって争った上、結局新造の叔父たちは関西や関
東の都会へ住みこみ職人や徒弟となって出ていったのだった。というのも、戦前
清水川の下流に発電所のダムができ、その土地に住む者たちの長年の主な仕事だ
った船頭の仕事がなくなったとき、部落の者たちは隣県の神岡銅山や、遠く九州
の炭鉱や、関西や関東の都会へと散り散りになって去っていくほかなかったので
ある。(上巻279頁)
わずかな土地持ちであった新造の父親も、馬一頭を手に入れただけで、ダム建設の犠牲になって土地も船頭の仕事も奪われ、深酒と母親いじめを始めるようになる。
それから新造の父親の馬子の仕事が始まったのだが、それは新造のごく幼いと
きのことで、あるときからかれは父親とも馬とも会わなくなった。母親は、おと
うは遠くの鉱山に働きに行ったのだと言っていたが、そのころはかれも母親に連
れられて、それまで見たこともないごたごたした街並みの埃っぽい街で、トタン
屋根と板敷の雨漏りのする家で毎日母親の帰りを夜遅くまで待ちながら暮らすよ
うになったのだった。そして父親とはそれきり会うことはなかった。やがて小学
校へいった新造は一年の最初をどうにか通ったくらいであとは学校へいかず、畠
の手伝いをしたり、もっこをかついで暗渠排水の作業をしたりして村を転々と
し、15歳で名古屋へいってガラス屋に勤め、十八歳のときは遠い親戚のところ
で住みこみで靴職人をしていたのだった。(上巻281―282頁)。
こうした部落民は田畑や生活に必要な権利をもつことを許されず、悲惨な生活を余儀なくされたという『人間の土地』における部落像は、部落解放同盟第16回全国大会(1961年3月2日開催)の運動方針にも「部落が一つの社会層として、農業および近代的な生産関係からしめ出され、前時代的な雑業や労役のほかに仕事もなく、きわめて低い生活水準のままにおかれている」(4)と示されているように、部落差別の本質とは「部落民が主要な生産関係から除外されている」と規定した解放理論(「朝田理論」)とその下での「悲惨史観」とも言われた部落史研究に依拠していた。
朝田理論は、高度経済成長の過程で部落と部落外との格差が拡大し、貧困が深刻化してゆくなかで、こうした貧困な状況と部落差別との関連性を説明するために生み出されたものであったが、部落史研究が進んだ今日では、それが強調していた歴史的な〈事実〉に対する見方自体が大きく揺らいでいる。たとえば、西日本では、農業に従事し、広い耕地を持つようになった人々も多く存在し、近世の大和(現在の奈良県)では「田畑を所持して農業経営を行い、領主に対しては所有する田畑の公租を負担するとともに、水郷や山郷などの地域社会が作る集団に加わるということでは他の百姓村と何らかわることのない存在だった」(5)ことが指摘されている。さらにまた、部落民の居住地が河川敷などの農耕に不適な空間地であり、土地の占有が少ないという問題に関しても、赤坂憲雄が指摘しているように、すでに1913年に柳田国男が「所謂特殊部落ノ種類」(『柳田国男全集』第4巻、ちくま文庫、1989年)で、土地所有の排除という視点からではなく、漂泊/定住のはざまに部落の形成をみいだそうという視点から、中世の漂泊民の土着が村の開発にはるかに遅れた結果であると指摘している(6)。
もともと朝田理論は、部落における集団運動をつくり出すために、部落としての一体性ということを前提にしていた。しかし、そのような考え方は、複雑で多様な部落像を初めから否定してしまう危険性を孕んでいた。『人間の土地』もまた、朝田理論に依拠することで、そこで強調されていた“貧困と悲惨”という一面的で固定化された部落像をそのまま再生産してしまっていたのであった。
注
(1)竹内泰宏「狭山事件と私」(『部落解放』1977年3月号。『第三世界への
想像力』現代書林、1980年、232頁)。
(2)番匠健一「映画『家族』から見た高度経済成長」(西川長夫・大野光明・番匠
健一編著『戦後史再考 『歴史の裂け目』をとらえる』平凡社、2014年、
193頁)。
(3)竹内泰宏「狭山事件と私」(前掲書、231頁)。
(4)部落解放研究所編『部落解放運動基礎資料集Ⅰ 全国大会運動方針第1~20
回』(部落解放同盟中央本部、1980年、379頁)。
(5)奈良県立同和問題関係資料センター編『奈良の被差別民衆史』(奈良県教育委
員会、2001年、99頁)。
(6)赤坂憲雄『柳田国男の読み方―もうひとつの民俗学は可能か』(ちくま新書、
1994年、118―135頁)。