「部落解放を『国民的課題』にする一つの有効不可欠な道」

 『同和はこわい考』をめぐる論議の中で、それへの積極的な介入の意志を示したのが大西巨人の「部落解放を『国民的課題』にする一つの有力有効不可欠な道」(『朝日ジャーナル』1988年8月5日号)であった。そこで展開されている部落解放論を、私の関心から整理すれば次の二点となる。

 第一は、「部落解放運動が現実的に部落解放同盟によって主に中心的に担当推進せられてきた、という事実と、しかし部落解放運動と部落解放同盟とは、まったくの同一物ではない、という事実とを確認することが、『部落解放の課題を名実ともに「国民的課題」に高める』ために決定的な当為でなければならない。」と述べているように、部落差別の問題を「部落民の問題」、部落解放運動を「部落解放同盟による運動」として狭め歪めてしまっている従来の見方への異議申し立てである。

 こうした大西の主張は、部落差別問題と部落解放運動を相対化して「国民」に開放することの必要性から出されたものであり、それゆえ、そうした狭い認識にもとづいた「著者[藤田]がこれまで交わってきた運動らしきものとの、このましからざる関係によって」という中央本部の「基本的見解」を「傲慢無礼な言辞」と批判し、また、「随伴者的かかわり」という藤田の表現についても「卑屈奇怪な表現」と批判したのだった。

 第二は、この批評の冒頭で、大西は室生犀星『性に目覚める頃』(1919年)に掲載されている詩人表棹影の短歌「日は紅しひとにはひとの悲しみの厳かなるに泪は落つれ」を引用し、「『ひとにはひとの悲しみの厳かなる』を、私は、“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”というふうに解する。」と述べているように、この批評のタイトルにもなっている「部落解放を『国民的課題』にする一つの有力有効不可欠な道」についての提起である。

 大西が真っ先にあげた“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”の問題については、全国同和教育研究協議会機関誌・月刊『同和教育』1985年2月号に掲載された「意識および無意識の打破」(『同和教育』1985年2月号)というエッセイでも取りあげられている。そこで大西は、「十数年前に七十歳弱で物故した」「革命的階級政党員であった小説家Q」が、某新聞の連載していた「旧居訪問」で「現住民の存在を度外視して『あの乞食小屋のような長屋』と読んだり書いたりすること(そういう意識および無意識)」の問題を掘り下げ、自分より困難な立場に置かれている人に対する差別意識がいかに“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”の意識を奪い取るかを指摘している。

 このように、大西が“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”、すなわち、他者の哀しみや苦しみに対する想像的理解と共感的連帯の問題を重視したのは、こうした差別問題の認識こそが「『支配する少数者』にたいする『支配せられる多数者』の本源的な消極性・受動性・攻撃力薄弱・想像力貧困」(「分断せられた多数者」『運命の賭け』晩聲社、1985年、44頁)を乗り越えるために最も必要なものであり、「部落解放の課題」を部落民の解放の課題としてだけではなく、「国民」に開放するための「一つの有効不可欠な道」であると考えたからであろう。

 それゆえ、大西は部落出身者以外の部落解放運動の可能性を否定していると捉えられかねない「著名なテーゼ」に見られる過度な本質主義を批判した『同和はこわい考』を評価し、「有意義な―部落解放運動の今日および明日にとって甚だ有意義な―書物と考えた。新規高次の部落解放運動理論がこの書物内容の周到篤実な吟味の上に構築せられることの可能性を、私は大いに期待した」と述べ、部落解放運動内部における藤田のような異なる視点の容認こそが「新規高次の部落解放運動理論」の構築のために不可欠なものであることを指摘したのだった。

 しかし、「『同和こわい考』に関する論争あるいは『吟味』が現に進行中――というよりもむしろ緒に就いたばかりで――あるとき」に、中央本部が早まった『基本的見解』決定・発表して、「『権力と対決しているとき』だの『敵前武装解除警戒』だのを口実に自己陣営の内部批判言論を抑圧封殺することは、その運動の発展ないし『主体の確立』を妨害阻止することにひとしい。」と批判しているように、部落解放運動内部からは藤田の声は容認されず、大西の「期待」が叶えられることはなかった。テッサ・モーリス=スズキが指摘しているように、「市民社会(civil society)の境域を再構築する試みは、学問的反省と公共的論争、政治的行動の三者の間にどのようにして適切な関係をつくりだすかということにかかわる異なる意見の衝突によって創生されるべき」(「批判的想像力の危機」『批判的想像力のために』平凡社、2002年、46頁)であったのだった。

 その一方、『同和はこわい考』に関しても、「『同和はこわい考』の一箇所にだけ、私は、殊に甚大な疑義ないし異見を抱く。」として、「それは、同書三〇ページの「[前略]それでも差別事象が発生する。行政が差別の根源だと簡単にはいえそうにない。それではアメリカ帝国主義と日本独占資本、あるいは日本帝国主義が差別を再生産しているのか・・・。もう、こんな議論は止めにしよう。[後略]」というあたりである。ここの文章(文体)は、いちじるしく弛穏していて、内容のいかがわしさを私にまず覚えしめる。」、「おそらく藤田の心事は、現代部落差別の近世政治起源説にたいする否定か疎ましさかに置かれているのであろう。それが、その資本主義拡大再生産説にたいする嘲笑的否定へと一気に突っ走るとき、そこに私の甚大な疑義ないし異見が生じる。そこには、なお今後における専門的研究にも大いに俟つべき難問が、存在する。」と批判した。

 先に見たように、藤田は、部落解放運動における「右翼融和主義、利権と暴力、腐敗と堕落といった矛盾」を克服するために、「行政闘争路線」とその理論的基礎としての「三つの命題」の批判的検討を提起していた。したがって、藤田の「資本主義拡大再生産説にたいする嘲笑的否定」は、「現代部落差別の近世政治起源説にたいする否定か疎ましさ」というよりも、直接的には「三つの命題」や「行政闘争路線」に対する「否定か疎ましさ」にあると見たほうがよいだろう。マルクス主義の立場を堅持しつづけた大西が、部落差別と資本主義との具体的関連の探求を否定するような主張に対して「疑義ないし異見を抱く」のは当然のことであり、差別―被差別の関係性をつくりだしている社会構造を問わない藤田の主張からは、「差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営み」は個人の意識の問題に転換されてしまいかねず、その「構造」に対峙して変化をもたらすことができる集団運動としての部落解放運動の重要性も視野から消えてしまうことになるのだった。