過度の本質主義への批判―藤田敬一『同和はこわい考』

 『同和はこわい考―地対協を批判する』(阿吽社、1987年)は、藤田が勤務する岐阜大学の所在地である岐阜県と岐阜市などの部落差別問題に関する意識調査結果を分析した「意識調査に見る被差別部落のイメージ」、藤田自身の体験や見聞した事例を切開した「イメージの奥にひそむもの」、藤田と前川む一(部落解放同盟京都府連合会専従)との「往復書簡」の三章から構成されていた。「往復書簡」のうち、前川の「運動が置き忘れたもの」は沢井孝造の筆名で部落解放中国研究会(中研)の機関誌『紅風』の第49号(1981年9月号)に、藤田の「部落外出身者として私の思い」は今村謙次郎の筆名で第50号(1981年10月号)に掲載されたものの再録である。中研は1971年2月に、部落解放同盟中央執行委員であった西岡智の呼びかけで、国交回復直前の中国を訪ねた西日本部落解放活動家訪中団のメンバーを中心に結成され、1970年代後半から80年代にかけては機関誌『紅風』を通じて「部落解放運動―部落解放同盟内部における不正、腐敗、堕落」とのたたかいを展開していた(1)。

 その『紅風』の主要な執筆者一人であったのが藤田で、清水一彦の筆名で書いた論文「部落解放運動の現状に切り込む論争を―『解放新聞』紙上の師岡・大賀論文を読む―(その一)」(『紅風』の第25号、1979年9月号)では、先に触れた「三つの命題」、その中でも「部落差別の本質とは、部落民が市民的権利の中でも、就職の機会均等の権利を行政的に不完全にしか保障されていない。すなわち、部落民は、差別によって主要な生産関係から除外されているということである。これが差別のただ一つの本質である」という「第一の命題」が一種の「権威」としてあがめられている風潮を批判し、「今日の部落解放運動がその内部に台頭している右翼融和主義、利権と暴力、腐敗と堕落といった矛盾に直面しながら、部落解放理論として定式化された『三つの命題』論への批判的検討にむかわず、新たな理論の創造へとつながらない状況にあるといわなければならない。この状況をつくりだした原因がいったい何なのかが問われるべきである。」(25―26頁)と提起していた。それから7年後に出版された『同和こわい考』は、こうした課題に自ら応えようとしたものであったといえるだろう。

 したがって、横井清が指摘しているように、「著者の標的は、『ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない』、『日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である』という、これはこれ、きわめて著名なテーゼの立脚点とその意義を、現在の部落解放運動の直面している諸問題に照らしつつ、問いなおすこと」(2)であり、そうしたことから、『同和はこわい考』という書名にもかかわらず、「同和はこわい」という民衆の集合的意識やその歴史的起源、政治的・経済的機能の問題については余り掘り下げられておらず、また、この本の副題になっている「地対協を批判する」という点についても十分なものとはいえなかった。その結果、『同和はこわい考』は、藤田の意図とは別に、さまざまな反響をまきおこすことになった。

 そうした中で、『同和はこわい考』の問題点について、きわめて的確な意見を述べたのが野間宏であった。当時、差別とたたかう文化会議の議長であった野間は、1988年3月20日に開かれた同会議の総会において、「(1)『同和はこわい考』というタイトルがどうしても気になる。現実状況でのそのタイトルがどう社会的に機能するか配慮が必要ではないか、(2)『地対協』路線に対する行政への批判が不十分である。(3)差別・被差別の『両側からこえる共同の営み』との主張であるが、自分の場合、被差別の側に徹底して立ち切り、その深いところから発言していくことが重要。(4)そうした不十分な批判すべき点はあるが、藤田さんは狭山闘争をはじめ部落解放運動に深くかかわってきた人であり、決して差別者ではない。このことを確認したい。」(3)と語った。 

 わざわざ野間が藤田を「決して差別者ではない。このことを確認したい。」と念を押したのは、『同和はこわい考』に描かれている部落民、部落解放同盟のネガティブなイメージの部分に部落解放同盟中央本部(以下、中央本部)が猛反発していたからであった。1987年12月12日に、中央本部は「『同和はこわい考』にたいする基本的見解―権力に対決しているとき―これが味方の論理か」(以下、「見解」)を機関紙『解放新聞』に発表し、「『同和はこわい考』は、文字どおり、われわれの運動を『怖い』運動であると分析し、そこからでてくる矛盾、弊害の数かずを『地対協』がいうところと同質の水準で指摘している」と述べて、「国家権力と対決している時に部落解放運動にたいする味方の発言とは評価できないとして、きびしく批判していくことを決定した」。

 先の横井清の指摘にもあるように、藤田のねらいは、「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」、「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である」という「著名なテーゼ」に典型的に示されているような部落解放運動における「部落民性」の過度な強調に潜む排他性と排除の論理を明らかにし、その乗り越えを提起することであった。しかし、藤田のこの重要な提起も、自らの権利の要求の正当性とアイデンティティや団結の拠り所のために「部落民性」の強調を必要とした歴史的/現実的な状況等に対する言及を欠いていたことから、「権力がきびしく、われわれを攻撃するとき、必ず、このような傍観的、第三者的な客観性を装った理論が、差別性を擬装して台頭してくることに警戒をおこたってはならない。」と述べているように、権力への対抗のための協働が最も必要な時に、その協働関係を壊す異なる意見と受けとめられたのだった。

 さらにいえば、藤田の主張のもう一つの柱である「差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営みとしての部落解放運動」の創出についても、差別する側、差別される側という非対称的な力関係とそれをつくりだす社会構造を批判的に問い直す指摘がなされていなかったために、そうした構造的な不平等の問題をそのままにして、部落の側にだけ人間の「歪み」の克服を求めているというような印象を与えることになった。その結果、部落解放運動の側からは、「被差別部落民の運動に対する態度が横柄であるあるとか、暴力的であるとか、価値の押しつけをするとかを改めよと、『両側から超える』を唱える人たちは、主張し、それはそれで個人的な問題の処理についてはゆずり合わせもできようが、部落差別は国の権力がかかわってきた問題で、そのことについて、われわれは行政闘争なるものを展開しているのである。『両側から超える』などということは、できようもない空想の世界に生きるということになる。」(4)という批判を招いた。

 このように、部落解放論に新しい地平を提供する可能性を秘めていた「両側から超える」という問題提起も、部落差別の存続という現実を隠蔽するような謳い文句にすぎないものとして受けとめられ、人間の根本的価値や人と人との水平化を追求してきた全国水平社以来の部落解放運動の遺産を見すえた意見をついに引き出すことはできなかった。

 

(1)師岡佑行「敗北の歴史から―『紅風』の停刊をむかえて」(部落解放中国研究 

   会『紅風』第100号、1989年3月)。

(2)横井清「『心理』と『思想』狭間から」(『こぺる』No.114、1987

   年6月)。

(3)藤田敬一『同和はこわい考』通信22号(1989年3月12日)からの転

   載。

(4)小森龍邦『解放運動の再生 共に闘ってきた人々へ』(明石書店、2001

   年、40頁)。