大西巨人「分断せられた多数者」②

 前回に続き、『神聖喜劇』の作者・大西巨人が差別・抑圧の構造の理論的把握

を試みた「分断せられた多数者」(『朝日ジャーナル』1974年1月4日・11日合併号)をとりあげる。

 

共犯的な協力の問題

 部落差別が政治的、経済的な関係に限らず、感情に密接に結びついていることに注目する大西の問題意識は、すでに『新日本文学』1954年1月号に発表した小説「黄金伝説」にも現われている。差別事件を起した山村の父親(他地方からの「玉島地区」への移住者)は、主人公の新城に次のように語っている。

   「あたしたちが玉島に移ってきてから、あんことのおこるまでは、玉島の人た 

  ちや、うちのことをかげじゃ四つ、四つと云いよったですけんなあ。」

  と彼はごま塩頭を小さくゆすぶり、憤まんの口吻で、「へええ、あたしや、そげ 

  なこと云われよるとは、早うから知っとったとですばってん、知らんふりしとっ

  たです。それがあの事件でやっとあたしたちが四つじゃなかことのわかっとると

  ですたい。四つでもないもんを四つあつかいしてからに、なんぼうあたしが貧乏

  百姓ちいうたちや、人を馬鹿にするにも、ほどのあります。なあ、ああた、そう

  でござっしょうが。」

 この場面では、「このあたりでは、他地方(特に遠方)から経歴・素性の明ら

かでない移住者があった場合、その新来家族を『特殊部落民』として取り沙汰

することが往々あった。いちがいにそうとはかぎらないが、移住者がひどく貧

困である時に、しばしばその種のうわさが立った。」という状況の下で、山村の

父親の部落民に向ける嫌悪や侮蔑といった感情、部落民と見なされることで自

らの優越性が脅かされたことへの怒りが巧みに描かれている。

 先のブログで紹介したウォーラーステインは「人種差別はある個人が別の個人に向ける嫌悪や憎悪といった感情や、ある集団が別の集団に抱く優越感、あるいはその裏返しとして、自らの優越性が脅かされることの恐怖感としばしば結びつく。まさに意識や主観に触れる切実なものであるからこそ、人種差別は執拗なものとなりうる。」(「人種主義は乗り越えることはできるか―エティエンヌ・バリバールとイマニュエル・ウォーラーステインの対話」『神戸外大論叢』73巻1号、2021年4月、97頁)と発言しているが、自分自身に向けられる差別から身をまもるために、部落との「『相違』にみずからの異様な執着心ないし愛好心を保有し、その執着心ないし愛好心を陰に陽に発動する」山村の父親の姿を通して、大西は部落差別が「意識や主観に触れる切実なものであるからこそ」「執拗なものとなりうる」ことを見事に表現していた。

 さらに注目すべきなのは、「多数者」が「少数者」に服従するという転倒した関係がいかに維持されうるのかという問題について、「被支配階級各部分は、例の『程度・態度の相違』にみずからの異様な執着心ないし愛好心を保有し、その執着心ないし愛好心を陰に陽に発動する。そうすることによって、被支配階級各部分は、支配階級の自己温存・強化に『下から』手を貸し、支配階級の被支配階級分断政策を『下から』促進助長し、『支配せられる多数者』の現実的・能動的『多数者』化ならびに『多力者』化をみずから阻害断絶する。」と指摘していることである。

 この批評でも述べられているように、たいていの場合、「支配する少数者」には「支配者、差別者、抑圧者、疎外者、多力者」が、また、「支配せられる多数者」には「被支配者、被差別者、被抑圧者、被疎外者、非力者」があてがわれる。しかし、大西は、「支配せられる多数者」がただ単に「支配する少数者」に従うだけでなく、自発的かつ積極的に従属していたことを指摘し、二項対立的な見方を相対化したのだった。このような共犯的な協力の問題については、大西の批評よりもかなり前に、映画監督の伊丹万作が同じような指摘を行っていた。1946年8月に映画雑誌『映画春秋』創刊号に寄稿したエッセイ「戦争責任者の問題」(青空文庫)の中で、伊丹は次のように述べている。

   さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みなが口を揃えてだ

  まされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間 

  はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。

  多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っ

  ているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは

  軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上の方をさし

  て、上からだまされたというだろう。さらに上のほうへ行けば、さらにもっと上

  のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二

  人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の

  人間がだませるわけのものではない。

 このように、伊丹は連鎖的な隷属関係の問題について述べて、実際には「『だ

まし』の専門家と『だまされ』の専門家とに劃然と分かれていたわけではなくいま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。」と指摘し、そのうえで、「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体である。」と主張した。

 このような連鎖的な隷属関係と共犯的な協力の問題の根底にあるのが、「批判力を失い思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねる」という精神のあり様、大西が言うところの「『支配する少数者』にたいする『支配せられる多数者』の消極性・受動性・攻撃力薄弱・想像力貧困』」(50頁)という指摘は非常に重要である。なぜなら、こうした「盲従」をしりどける人間の思考、判断力、想像力の欠如こそが、部落差別などさまざまな差別を存続させている大きな要因であり、今日の日本社会を生きる人たちも陥っている深刻な問題だからである。それゆえ、半世紀近く前の批評を締めくくった「『支配する少数者』にたいする『支配せられる多数者』の本源的な消極性・受動性・攻撃力薄弱・想像力貧困を主体的に確認して、それの徹底的克服・それからの最終的脱却のために、いよいよますます力を入れなければならい。」(50―51頁)という大西の言葉は、差別からの脱出口と人間の解放を模索している現在の人たちに向けられた重要な提起として受けとめねばならないだろう。