前回に続き、今回も伊藤野枝に関して再編集した記事を掲載します。ここで紹介している伊藤野枝の小説「火つけ彦七」については、文芸誌『革』第38号(2023年3月)に掲載予定の「部落問題文学の前進と停滞―伊藤野枝、西光万吉、島木健作の作品から―」という私の評論で取り上げています。

 

全国水平社創立への序曲ー伊藤野枝「火つけ彦七」

 1912年3月、生れ故郷の福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)を出奔した17歳の伊藤野枝は、同年10月に雑誌『青踏』に社員として初めて名前が載った。そして、『青踏』第二巻第十二号(1912年12月号)に掲載された「日記より」の中で、「十重二十重に縛(いまし)められた因習の縄を切って自由な自己の道を歩いて行こうとする私は、因習に生きている、両親やその他の人々の目からは、常軌を逸した、危険極る、道を平気で行く気違いとしか、見えないだろう。」(1)と語り、「新しい女には新しい女の道がある。新しい女は多くの人々の行止まった処よりさらに進んで新しい道を先導者として行く。」(2)と決意した野枝にとっては、因習の打破は生涯のテーマであった。

 そのような決意を具現化したのが、生まれ故郷の福岡の海辺の村を舞台にして、障害児を生んだ母親の葛藤を取りあげた小説「白痴の母」(『民衆の芸術』第一巻第四号、1918年10月号)であった(3)。野枝が当事者である女性差別の問題以外に障害者差別の問題を取りあげたのは、前回ブログでも見たように「事実はよそごとでも、その不条理の横暴はよそごとではない。これをどう見のがせるとあろうか」という、困難な立場に置かれた人たちへの共感と不正義に対する激しい怒りがあったからであろう。

 『改造』1921年7月夏期臨時号に掲載された「火つけ彦七」(4)も、被差別部落民(以下、部落民)が受けてきた「不条理な横暴」をテーマにしたもので、そのあらすじを作品での表現をまじえて要約すると、おおよそ次のようなものである。

   話は1900年の初め頃、北九州のある村はずれに一人の年老いた乞食

  が生き倒れになっていたことから始まる。

   この乞食は、その村の片隅にある部落で生まれた彦七という男で、小さい頃か 

  ら村の子ども達から差別されてきた。やがて彦七は、村人達に卑しめられるの 

  が、訳もなく悔しく、馬鹿馬鹿しいと云う気持ちがますます激しくなって来て、 

  自分の家をぬけ出して、城下町に行き、瓦焼き場の火を燃やす仕事にありつい

  た。そして、生まれて初めて、彼はその時に普通の人間として他の職人達と交際

  が出来たと思った。

   ある時、町に奉公に来ている旧知の村の者達に出会い、彼らから差別発言を受

  けたので、物も云わずにその連れに打ってかかり、相手が一かたまりになって立

  ち向かってくると、下駄で相手の横っ面を手ひどく打ちつけた。しかし、多勢に 

  無勢、彦七は倒され、袋叩きにあい、虫の息になるまでいじめぬかれた。

   翌朝、彦七が放置されているのを聞いた瓦屋は、彦七を引き取りに来たが、彼

  が部落民であることを知ったので、彦七を死にかけた犬ころのように、納屋の前

  の大地に布いたムシロの上にころがしておいた。彦七は「俺が、あの部落にさえ

  生まれて来なかったら、昨夜のような目に遇う事もなし、また、こんな扱いを受

  ける事もないのだ。何故俺はあんな村に生まれたのだ?だがあの村には何か因縁

  があれば、ソコで生まれた者が迫害されねばならないのだ…」と彦七はガンガン

  鳴る頭の中で繰り返し繰り返しそんなことを考えていた。

   そして、「死んでもいい、死んでもいいから、こんな処は出かけよう。そして

  村へかえるのだ。そうして今に見ろ何かで仇うちをしないでおくものか此の恥と

  苦しみをこれから出来るだけ貴様達に背負わしてやるぞ。」と、復讐心に燃えな

  がら部落へ帰り、四年間独居生活をし、早朝から田畑の仕事、夜は草履やわらじ

  作りなどをして憑かれたように小金を貯め、町に出て金貸しを始めた。

   彦七は世間の人間を出来るだけいじめる為に金貸しをはじめたのであったか

  ら、世間の非道な、ただ金に目がくらんでいる金貸しの惨忍よりも、もっともっ

  とひどい惨忍を平気で重ねた。しかし、彼の「無情な仕打」によって生きる途を

  閉ざされた貧乏な鍛冶屋の妻から報復のために火をかけられ、彦七はすべてを失

  った。やがて、彦七は「今までの金による復讐を、今度は魅力にとんだ火焔と取

  り換え」、「長い間、彼方此方(あっちこっち)を徘徊しながらその呪いを止め

  なかった」。

   「彼が生まれた村に帰って来たのは、最後の思い出に最初の彼れ(ママ)の呪

  い心を培った土地に呪いの火を這わす為」であった。そして、その村で三回にわ

  たって放火をして逮捕されたが、彦七は「息の根が絶えるまでは、此の火をもっ

  ての呪いを止めない」と言っているのだった。

 このように、差別する側の惨忍さと差別される側の屈辱、絶望、呪い、復讐を描いた「火つけ彦七」は、彦七の生まれ育った部落のことや差別する側の人たちのことが十分に描かれていない等の問題があるとはいえ、彦七の「呪い心」にもとづく「呪いの火」という暴力は、差別する側の暴力が彦七の心を引き裂きながら差別する側へと向きを変えたものであることを見事に表現していた。

 こうした「火つけ彦七」を貫く視点は、無政府共産主義という理想を伊藤と共有した大杉栄の「事実の上に立脚するという、日本のこの頃の文芸が、なぜ社会の根本事実たる、しかも今日その絶頂に達したる、かの征服のことに触れないのか。近代の生の悩みの根本に触れないのか。さらに一歩進んで、なぜそれに対するこの反逆の事実に触れないのか。この新しき生、新しき社会の創造に触れないのか。確実なる社会的知識の根底の上に築かれた、徹底せる憎悪美と叛逆美の創造的文芸が現われないのか。」(5)という問いかけに応えるものでもあったといえるだろう。

 こうして、「生が生きて行くためには、かの征服の事実に対する憎悪が生ぜねばならぬ。憎悪がさらに反逆を生ぜねばならぬ」(6)ことを表現した「火つけ彦七」は、全国水平社の機関誌『水平』創刊号に転載されたことによって、全国水平社が彦七に見られるような部落民の反逆の精神を共通の基盤にして成立していることを広く知らしめる役割をも担ったといえるだろう。そのような意味も含めて、1921年7月に発表された伊藤野枝「火つけ彦七」は、翌年3月3日の全国水平社創立への序曲としての意味を持つ小説として位置づけられるだろう。

 

「かれらに与えられたわずかな時間を超えて」

 関東大震災から2週間ほど経った1923年9月16日大杉と野枝、大杉の甥・橘宗一は東京麹町の憲兵隊本部内で殺害された。大杉38歳、野枝28歳、橘宗一は6歳であった。半世紀ぶりに発見された「死因鑑定書」について、『朝日新聞』1976年8月26日付によれば「鑑定書は①大杉氏と伊藤さんの二人は肋骨(ろっこつ)などがめちゃめちゃに折れ、死ぬ前に、ける、踏みつけるなどの暴行を受けている、との新事実を明らかにしたうえ、②死因は、三人とも首を腕などの鈍体によって絞圧、窒息せられたもの(扼殺=やくさつ)としている。」と報道している。

 野枝や大杉が憲兵隊によって暴行虐殺されたのは、彼らの理念が、権力を持った人間の思い描く日本という国に対する理念と真っ向から対立していたからであった。その理念とは、同じ生きる権利を持って生まれた人間が圧迫を加えられたり、不公平な扱いをされたりするのを黙って見過ごすことはできない、という強い「覚悟」に基づいた無政府共産主義だった。

 野枝や大杉らが虐殺されてから、やがて100年になろうとしている。今日においても、野枝が歎いたような「多くの人の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジャスティス』」(7)が数多く存在している。ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者のハンナ・アーレントは「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうこと」(8)と自らの確信を語っているが、野枝や大杉がともした光も、「地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて」、「大事ジャスティス」を照らすために現在も輝き続けていると、私は確信している。

 

(1)森あゆみ編『伊藤野枝集』岩波書店、2019年、17頁。

(2)伊藤野枝「新しき女の道」(『青踏』1913年1月号。前掲『伊藤野枝

   集』161頁)。

(3)(4)「白痴の母」「火つけ彦七」は、『伊藤野枝集』(前掲)に収録されて

   いる。

(5)大杉栄「生の拡充」(『近代思想』1913年7月号。青空文庫、4頁)。

(6) 同 前、3頁。

(7)伊藤野枝「乞食の名誉」(大杉栄・伊藤野枝共著『乞食の名誉』聚英閣、

   1920年。前掲『伊藤野枝集』109頁)。

(8)ハンナ・アーレント『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫、2005年、

   10頁)。