来年の9月には関東大震災の虐殺事件が起きて100年を迎えます。ちょうど2年前のブログに、「関東大震災の虐殺事件と現代」という記事を2回投稿しましたが、今回はそのうち、現在NHKで放映されている『風よあらしよ』の主人公・伊藤野枝の記事を再編集したものを掲載します。

 

「甘粕大尉公判・聴取書」から

 関東大震災の混乱に乗じて虐殺された大杉栄・伊藤野枝のことを調べるために、『黒旗水滸伝』大正地獄変 下巻(竹中労著/かわぐちかいじ画、皓星社、2000年)を読んでいたら、大杉と野枝を虐殺した犯人である甘粕正彦陸軍憲兵大尉の「公判・聴取書」が引用されており、甘粕は、野枝を殺害する前に次のようなやりとりがあったと証言している(同書、234―236頁)。

   午後9時15分頃、隊長室にゆきましたら、のえは壁に拠った所で、右肘を机 

  に乗せて椅子に腰を掛けておりました故、直ちに絞殺の手段をとることができ

  ず、私は室内を歩行しながら、「戒厳令が布かれてこのような馬鹿なことがあ

  る、と思っているだろう」といいましたれば、のえは笑って答えませぬので、

  「軍人など馬鹿に見えるであろう」とさらに申しましたるところ・・・

   (以下、問答体にあらためる)

   野枝「否え、兵隊さんでなければならぬように云う人達も、世間には多勢いる

  ではありませぬか」

   甘粕「自分達は兵隊で、警察官の役目もしておるから、君達には一番嫌な人種

  に見えるであろう」

   野枝「(笑って答えず)・・・」

   甘粕「この大震災で今より一層の混乱に陥ることを君達は期待しているのでは

  ないか」

   野枝「そう思われるのは、考方(かんがえかた)が違うので致方ありません」

   甘粕「どうせ、斯様な状況(震災と憲兵隊逮捕の件)を、原稿に書く資料にす

  るのであろう」

   野枝「ええ、既に本屋から二、三申し込みを受けております」

 これまで野枝に関しては、大杉と一緒に語られる無政府主義者・フェミニストという程度の知識しかなかったが、この甘粕の証言に示されている野枝は、暴力による民衆弾圧の権化ともいうべき憲兵隊の大尉を前にしても、決して臆してもおらず、かといって虚勢も張らず、実に堂々としているように、私には思えた。

1916年(21歳の時)から特別高等警察の「特別要視察人 甲号」として警察の尾行がつく身であったとはいえ、憲兵隊や警察を前にして、野枝のような態度をとれるかと聞かれたら、即答できる人は少ないと思う。そうしたことから、私は、何物にも臆することがない野枝の態度の奥には何が秘められているのか、また、それがどのように形成されたのかということについて、深い関心を持った。今回と次回は、野枝の作品を取りあげ、彼女の信念や覚悟とその現在的意義について考えてみたい。

 

「背負い切れぬほどの悪名と反感とを贈られて」―小説「転機」

 先の問題の重要な手がかりとなるのが、1916年12月10日に大杉と一緒に栃木県の旧谷中村を訪れた時の体験を基に書かれルポルタージュともいえる「転機」『文明批評』1918年1月号、2月号)という小説である(1)。野枝が足尾銅山鉱毒事件(明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山から流れ出た廃液(鉱毒)が原因となった公害事件)の谷中村問題に関心を持ったのは、1915年1月末に野枝・辻潤夫妻の家に来訪した社会運動家・無政府主義者の渡辺政太郎、若林八重夫妻から話を聞いてからで、12月10日という日に足尾鉱山の鉱毒の水を貯める遊水地にされた旧谷中村を訪ねたのは、残留している農民の立ち退きが翌日に迫っていると聞いたからであった。

 野枝と大杉が旧谷中村を訪れた一か月ほど前、辻潤と離別していた野枝に大杉の愛情が移ったのを嫉妬した神近市子が大杉を刺した「日陰茶屋事件」が起きており、以後、野枝と大杉は多くの新聞雑誌で非難され、孤立していた。そのことを野枝は、小説「転機」で「こうして、私は恐らく私の生涯を通じての種々の意味での危険を含む最大の転機に立った。今までの私の全生活を庇護してくれたいっさいのものを捨てた私は、背負い切れぬほどの悪名と反感とを贈られて、その転機を正しく潜り抜ぬけた。私は新たな世界へ一歩踏み出した。」(青空文庫、21頁)と書いている。このように、「転機」は、野枝が自分の気持ちに正直に生きる「覚悟」を宣言した小説ともいえるが、そこには、なぜ「新たな世界へ一歩踏み出した」のかがはっきりと描かれている。

 たとえば足尾鉱毒問題を教えてくれたМ夫妻が、旧谷中村の残留農民の貧困や迫害に関して「もうずいぶん長い間どうすることもできなかったくらいですから、この場合になっても、どう手の出しようもないから、まあ黙って見ているより仕方はあるまいというのがみんなの考えらしいんです。」(11―12頁)と話したことについて、「しかし、私には、どうしても、『手の出しようがない』ということが腑に落ちなかった。とに角幾十人かの生死にかかわる悲惨事ではないか。何故に犬一匹の生命にも無関心ではいられない世間の人達の良心は、平気でそれを見のがせるのであろうか。手を出した結果が、どうあろうと、のばせるだけはのばすべきものではあるまいか。人達の心持ちは『手のだしようがない』のではない『手を出したってつまらない』というのであろう。」、「私はМ氏の話に感ずるあきたらなさを考え詰める程、だんだんに憤激と焦燥が湧き上がってくるのを感じるのであった。」(12頁)と述べている。

 また、М夫妻が帰った後も「絶望的なその村民達の惨めな生活」を想像することに没頭していたら、夫のTが「なんだ、まだあんなことを考えているのかい。あんなことをいくら考えたってどうなるもんか。それよりもっと自分のことで考えなきゃならないことがうんとあらあ。」(14頁)と発言したことに対して、「他人のことだからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生まれた人間ですもの。私たちが、自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目に遇うまいとしているに違いないんですからね。自分自身だけのことをいっても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だって、やはり困るんですもの。」(14―15頁)と反論している。

 このように、野枝は、困難な立場に置かれた人たちが受けている「不条理の横暴はよそごとではない。これをどう見のがせるのであろうか」(14頁)という強い気持ちを持っていた。野枝は、このことを別の作品では「多くの人間の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジャスティス』を拾ひ上げる事」(2)と表現している。革命家のチェ・ゲバラは、「子どもたちへの最後の手紙」(1965年)の中で「世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、痛みを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です」と語っている、野枝もまた、他者の痛みに対する想像的理解と共感的連帯という「革命家において、最も美しい資質」を持った人間であったことは間違いないだろう。

 

(1)伊藤野枝「転機」(『文明批評』1918年1月号、2月号。引用は青空

   文庫から)。

(2) 同  「乞食の名誉」(大杉栄・伊藤野枝共著『乞食の名誉』聚英閣、19 

   20年。森まゆみ編『伊藤野枝集』岩波書店、2019年収録、109頁)。