来年の9月には関東大震災の虐殺事件が起きて100年を迎えます。ちょうど2年前のブログに、「関東大震災の虐殺事件と現代」という記事を2回投稿しましたが、今回は再編集した記事の2回目を掲載します。

 なお、今回触れている、職場で民族差別的な文書を繰り返し配布し、社員の在日朝鮮人の女性に精神的苦痛を与えた大手不動産会社「フジ住宅」(大阪府岸和田市)に対する損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は9月8日付で会社側の上告を退ける決定をしました。この「大阪のヘイトハラスメント裁判」については、2020年の7月25日と8月2日のブログで詳しく取り上げています。

 

他者の痛みに対する想像的理解と共感

 1987年6月に出版された藤田敬一『同和はこわい考―地対協を批判する』(阿吽社)は、書名のショッキングさとも相まって、多くの反響をまきおこした。その中に、『同和はこわい考』では余り掘り下げられていなかった「同和はこわい」という意識と民衆の集合意識との関連の問題について指摘したのが、高麗恵「エステルと会って。その後、井戸端会議風に(藤田敬一氏の“同和はこわい考”にいっておきたいこと)」(幻野の会『幻野通信』復刊第五号、1988年5月26日)であった。このエッセイで、高麗は「えせ同和やオドシ同和が『こわさ』の原因なら、それはいかなる行政施策にもつきまとうタカリ屋の群れだから気にすることはない。『こわさ』の原点は、ごく普通の人々の性根の中にある。この人々は『こわさ』の再生産を飽きずに心掛けており、知らない人には何とかして伝えたいとお節介を買って出る人々で、『同和だよ』『こわいよ』と上手に伝達できるとひと荷物をおろしたようなほっとする顔をする人々です。」(1)と述べ、「同和はこわい」という噂とその拡散が「ごく普通の人々」の被差別部落の人たちに向ける恐れや疑念といった感情=「性根」と結びついているものだからこそ執拗なものであることに注意を促した。

 前回のブログでも、このような「人々に恐怖を一方的にあたえる側が、恐怖をあたえられる側に恐怖する」(2)という民衆の意識と「帝国的国民主義」との関連について少し触れたが、太平洋戦争の敗北によって植民地を喪失した戦後日本における「帝国的国民主義」の問題について、コーネル大学教授で歴史学者の酒井直樹氏は次のように述べている(3)。

 

 戦前の「満州国」は、建前上は独立国でしたが国家経営や経済運営においてまぎれもなく日本の属国であり植民地であった。ちょうど同じように、連合国による占領の後の1952年以降の日本も建前上は独立国だったが、軍事・外交等の面では「合衆国の満州国」であり今もそうあり続けている。そうしたなかで、合衆国は東アジアの管理を、植民地支配のノウハウを知っている日本を通じて間接的に行おうとして、「下請けの帝国」の地位を日本に与えた。こうして、東アジアや東南アジアの人々に対して植民地宗主国の立場を依然としてとることを許された日本は、アジアでかつて日本が占領した地域やその住民に対して傲慢で見下す態度で臨み、あたかも日本と近隣諸国との間に未だに植民地統治の位階が存続しているかのように、傲慢な帝国主義者として振る舞うことを厭わない。

 

 このように、戦後の日本は、パックス・アメリカーナ(「アメリカの支配の下の平和」の意味)の下で「下請けの帝国」の位置を与えられることによって、戦争に負け植民地を喪失したにもかかわらず、「帝国的国民主義」を温存してきたのだった。そのような戦後日本における「帝国的国民主義」の問題を顕著に表したものとして、「東証一部上場の不動産大手『フジ住宅』(大阪府岸和田市)」において「社員教育」として、「2013年2月~2015年9月に従業員に対し、中国人や韓国人などを『嘘つき』『野生動物』などと侮蔑する雑誌やインターネット上の記事などの文書を職場で配布するなどとした」(『朝日新聞』2020年7月3日』)、という事件をあげることができる。

 私の住む松阪でも次のようなことがあった。今から20年ほど前に、私の友人である具志アンデルソン飛雄馬さんに起きた事で、彼は次のように語っている。

 

   夜の11時に、松阪市内のある交差点を右折しようとした時のことです。仕事 

  帰りで僕の車には4人乗っていました。たまたま同じ方向から、暴走族のバイク

  が10台ほど通過しました。すると、交差点のガソリンスタンドに隠れていた警 

  察官が写真を撮り始めたのです。警察官はバイクが通過した後、なぜか僕の乗っ

  ていた車を撮り始めました。

   その車は、友だちから借りていた車だったので、万が一、友だちに迷惑がかか

  るといけないので、Uターンして、閉まっていた真っ暗なガソリンスタンドの前

  に車を止め、「俺は暴走族とは何の関係もない。なぜ、車の写真を撮るんだ。」

  と警察官に聞きました。

   すると、警察官は「お前ら、車から降りてこい。お前、免許書見せろ!なん

  だ、お前、外人?」と言い、次の瞬間、暗いガソリンスタンドの奥から、怖そう

  な警官が二人出てきました。

   「おい、外人の運転手、こっちこい!」と言って、4人のうち、僕だけが掴ま

  れて奥へ連れて行かれました。そして、「なんか、文句あるのか!」と言われ

  て、腹を三発殴られました。

   「今から、留置所に入れてやろうか!それが嫌なら、土下座しろ!」と言わ

  れ、なんで土下座しなければならないのか、意味もわからないまま、ただ怖くて

  土下座しました。

   「警察舐めんなよ、さっさと帰れ!」

   車に乗った時、後輩たちが「何かあったんですか?」と聞きましたが、僕はひ

  たすら「くそー!」と言って、叫びました。

   今思い出しても、あの時の警察官の顔と屈辱は忘れられません。

 

 2020年5月25日に米国のミネアポリスで黒人男性・ジョージ・フロイ

ドさんが警察官によって殺害され、黒人に対する暴力と構造的な人種差別の撤

廃を訴える「ブラック・ライヴズ・マタ―」運動が世界中に広がった。日本で

は人種差別の問題が隠蔽されていることもあり、多くの日本人はこの問題に鈍

感であるが、米国で起きたのと同じような事件が現実に日本でも起きているの

だ。こうした行為が警察官個人による特殊な事例ではないことは、次のことか

らも明らかである。

 2005年12月22日、松阪市内の殿町中学校の「防犯教室」の講師とし

て招かれていた松阪警察署生活安全課課長が生徒の前で「みなさん、広島県で

ペルー人の男性が小学校一年生の女の子を殺害した事件を知っていると思いま

す。犯人は鈴鹿市の平田町で逮捕されました。そういった不良外国人が増加し

ています。近いうち、松阪市にも不良外国人が押し寄せて来ると思いますので、

決して近づかないようにしてください。もし、不良外国人がいた場合、すぐに

逃げてください。」と発言した。その後、この発言を知った私たちは、松阪警察

署に対して厳重に抗議し、松阪警察署は「署としての責任を認め、署員の人権

意識の向上のための取り組みを行う」ということを約束したが、この発言がそ

の場限りの思いつきではなく、警察としての考え方や方針を反映したものであ

ることは、まず間違いないだろう。

 このように、日本においても、「為政者が少数者の叛乱の潜在性に強迫的な恐怖を持っていて、その恐怖に促されて様々な政策を案出」し(4)、「人々に恐怖を一方的にあたえる側が、恐怖をあたえられる側に恐怖する」(5)という状況は継続している。関東大震災の虐殺事件は、今から100年近く前のことだが、このような一人ひとりの人格や命が無視される状況が存在している限り、それは今でも起こり得る危険性をはらんでいるといえるだろう。

 先に触れた『同和はこわい考』をめぐる論議のなかで、戦後文学を代表する長編小説『神聖喜劇』の作者・大西巨人は、『朝日ジャーナル』1988年8月5日号に「部落解放を『国民的課題』にする一つの有力有効不可欠な道」という批評を発表し、その冒頭に詩人表棹影の短歌「日は紅しひとにはひとの悲しみの厳かなるに泪は落つれ」を引用して、「『ひとにはひとの悲しみの厳かなる』を、私は、“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”というふうに解する。」と述べている。私たちが「帝国的国民主義」や「人々に恐怖を一方的にあたえる側が、恐怖をあたえられる側に恐怖する」という意識を克服するためには、大西が述べているように、困難な課題ではあるが、“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”、すなわち、他者の痛みに対する想像的理解と共感的連帯の感覚を絶えず研ぎ澄ますことが求められているといえるだろう。

 

(1)藤田敬一『同和はこわい考』通信13号(1988年6月20日)から

   の重引。

(2)八木晃介『〈癒し〉としての差別』(批評社、2004年、255頁)。

(3)酒井直樹「帝国の喪失とパックス・アメリカーナの終焉―東アジア共生

   の条件」(『新潟国際大学 国際学部 紀要』創刊準備号、2015年7

   月)。

(4) 同  「レイシズム・スタディーズへの視座」(鵜飼哲、酒井直樹、テッ 

   サ・モーリス=スズキ、李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』(以文社、

   2012年、55頁)。

(5)前掲注(2)。