部落解放論への提言
今回は、大西巨人の「部落解放を『国民的課題』にする一つの有効不可欠な道」(『朝日ジャーナル』1988年8月5日号)も含めて、さまざまな反響をまきおこした藤田敬一『同和はこわい考―地対協を批判する』(あうん双書、1987年6月20日)と、それに対する部落解放同盟中央本部「『同和はこわい考』にたいする基本的見解―権力に対決しているとき―これが味方の論理か」(『解放新聞』1987年12月21日)について見てみたい。
『同和はこわい考』をめぐって
藤田敬一『同和はこわい考―地対協を批判する』とその評価
1987年6月に出版された藤田敬一『同和はこわい考―地対協を批判する』は、藤田氏が勤務する岐阜大学の所在地である岐阜県と岐阜市などの部落差別問題に関する意識調査結果を分析した「意識調査に見る被差別部落のイメージ」、藤田氏自身の体験や見聞した事例を切開した「イメージの奥にひそむもの」、藤田氏と前川む一氏(部落解放同盟京都府連合会専従)との「往復書簡」の三章から成り立っていた。
「往復書簡」のうち、前川氏の「運動が置き忘れたもの」は沢井孝造の筆名で部落解放中国研究会(中研)の機関誌『紅風』の第49号(1981年9月号)に、藤田氏の「部落外出身者として私の思い」は今村謙次郎の筆名で『紅風』第50号(1981年10月号)に掲載されたものの再録である。
中研は1971年2月に、部落解放同盟中央執行委員であった西岡智氏のよびかけで、国交回復直前の中国を訪ねた西日本部落解放活動家訪中団のメンバーを中心に結成され、1970年代後半から80年代にかけては『紅風』を通じて「部落解放運動―部落解放同盟内部における不正、腐敗、堕落」とのたたかいを展開していた(1)。その『紅風』の主要な執筆者一人であったのが藤田氏で、清水一彦の筆名で書いた論文「部落解放運動の現状に切り込む論争を―『解放新聞』紙上の師岡・大賀論文を読む―(その一)」(『紅風』の第25号、1979年9月号)では、自らの問題意識について次のように述べていた。
理論不信、理論ぎらいが運動内部にはびこっているというより、むしろ行政闘
争路線(行政施策の拡充によって部落解放が達成されるとする立場)の理論的基
礎としての「三つの命題」論(朝田善之助常任中央委員(当時)の主導のもとに
整理された理論で、〈部落差別の本質〉〈部落差別の社会的存在意義〉〈社会意
識としての差別観念〉から成る―宮本)、とりわけその第一の命題は運動の中に
定着しているとみるべきだろうと、私は考える。したがって問題は、今日の部落
解放運動がその内部に台頭している右翼融和主義、利権と暴力、腐敗と堕落とい
った矛盾に直面しながら、部落解放理論として定式化された「三つの命題」論へ
の批判的検討にむかわず、新たな理論の創造へとつながらない状況にあるといわ
なければならない。この状況をつくりだした原因がいったい何なのかが問われる
べきである。(25―26頁)
この発言にある「第一の命題」とは、「部落差別の本質とは、部落民が市民的権利の中でも、就職の機会均等の権利が行政的に不完全にしか保障されてない。すなわち、部落民は、差別によって主要な生産関係から除外されているということである。これが差別のただ一つの本質である。」という「部落差別の本質」規定のことであるが、それから7年後に、こうした問題に応えようとしたのが『同和はこわい考』であった。したがって、横井清氏が的確に指摘しているように、「著者の標的は、『ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない』、『日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である』という、これはこれ、きわめて著名なテーゼの立脚点とその意義を、現在の部落解放運動の直面している諸問題に照らしつつ、問いなおすこと」(2)にあった。
そうしたことから、『同和はこわい考』という書名にもかかわらず、「同和はこわい」という民衆の集合的意識、つまり、「恐怖を一方的にあたえる側が、恐怖をあたえられる側に恐怖するのはなぜなのか」(3)という根本的な問題については掘り下げられておらず、また、副題である「地対協を批判する」に関しても、「同和はこわい」意識の歴史的起源や政治的・経済的機能の問題、あるいは権力者側が被差別民(この場合、部落民)に抱く恐怖の問題についても触れられていなかった(4)。
さらに言えば、藤田氏の主張のもう一つの柱である「差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営みとしての部落解放運動」の創出の問題についても、被差別という状況によってもたらされた人間の「歪み」の克服の問題が事例をあげて述べられていたが、それは部落民の苦しみに対する想像的理解や共感的連帯の上に立ったものとは受けとめがたいところがあり(5)、ましてや差別する側の「腐敗、堕落」の深刻さについてはほとんど踏み込めていなかった。その結果、『同和はこわい考』は、藤田氏の意図とは別に、さまざまな反響をまきおこすことになった。
そうした中で、『同和はこわい考』の問題点について、きわめて適切な意見を述べたのが野間宏氏であった。当時、差別とたたかう文化会議の議長であった野間氏は、1988年3月20日に開かれた同会議の総会において、「(1)『同和はこわい考』というタイトルがどうしても気になる。現実状況でのそのタイトルがどう社会的に機能するか配慮が必要ではないか、(2)『地対協』路線に対する行政への批判が不十分である。(3)差別・被差別の『両側からこえる共同の営み』との主張であるが、自分の場合、被差別の側に徹底して立ち切り、その深いところから発言していくことが重要。(4)そうした不十分な批判すべき点はあるが、藤田さんは狭山闘争をはじめ部落解放運動に深くかかわってきた人であり、決して差別者ではない。このことを確認したい。」(6)と語っている。わざわざ野間氏が「(藤田さんは)決して差別者ではない。」と念を押したのは、『同和はこわい考』に描かれている部落民、部落解放同盟のネガティブなイメージの部分に部落解放同盟中央本部(以下、中央本部)が猛反発していたからであった。
1987年12月12日、中央本部は「『同和はこわい考』にたいする基本的見解―権力に対決しているとき―これが味方の論理か」を機関紙『解放新聞』に発表し、「『同和はこわい考』は、文字どおり、われわれの運動を『怖い』運動であると分析し、そこからでてくる矛盾、弊害の数かずを『地対協』がいうところと同質の水準で指摘している」と厳しく批判し、「国家権力と対決している時に部落解放運動にたいする味方の発言とは評価できないとして、きびしく批判していくことを決定した」。
そもそも部落解放運動は、すでに全国水平社の初期に「吾々の水平運動は単なる過去の迫害に対する復讐ではない。人間を人間として認め得ない哀れな人間を救ふ為の運動である。又人間でありながら人間として誇り得ない人間の人間的自覚を促すべき運動である」(「全国水平社青年同盟の使命」『選民』1924年3月15日)と語っているように、「差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営みとしての部落解放運動」の創出にむけて、差別する側、される側の「腐敗や堕落」の克服と、人と人との水平化の問題を重要視していた。それゆえに、中央本部は、このような人間の根本的価値を追求してきた水平社の遺産を想起して、両側の結び目となる他者の抑圧や苦しみに対する共感や想像力の問題について、その深部から見すえたものを藤田氏に向けて提起する必要があったのではないだろうか。
また、藤田氏が「標的」にしていた「著名なテーゼ」の理論的基礎となしている「三つの命題」(そのうち「第一の命題」)に関しては、部落民が市民社会において十分な政治的ないし経済的処遇を受けてこなかった状況の説明を、「部落差別の本質」と規定していることの誤りは明白である(7)。しかし、後述するように、安価な労働力の抽出と政治的安定の手段として部落差別が創出されたことを強調している「第二の命題」(部落差別の社会存在意義)と、「社会意識としての部落差別観念の本質」を労働者の階層化と不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー的主張と捉えた「第三の命題」(社会意識としての差別観念)は、「世界システム論」を提唱したウォーラーステインの人種主義解釈と多くの点で類似しているところがあり(8)、その意味で部落差別の特殊性を理論化しようとした朝田氏の意図とは別に、グローグローバルな側面を持った理論でもあった。
したがって、藤田氏からの批判を、これまでの部落解放理論(「朝田理論」)を再検討して、グローバルな広がりをもった理論に発展させるチャンスと捉える必要があったが、組織存続のカギにまでなっていた「法」の存廃の問題に目を奪われていたために、藤田氏の主張を「差別思想」と決めつけて権力主義的に封殺するという対応をしてしまったのだった。大西巨人「部落解放を『国民的課題』にする一つの有効不可欠な道」という論文は、このような「『同和はこわい考』論議の渦中」で発表された。
注
(1)師岡佑行「敗北の歴史から―『紅風』の停刊をむかえて」(部落解放中国研究会『紅風』第100号、1989年3月)。
(2)横井清「『心理』と『思想』狭間から」(『こぺる』No.114、1987年6月)。
(3)八木晃介「被害側の創造的反作用について 恐怖を与えるものが恐怖する」(『〈癒し〉としての差別 ヒト社会の身体と関係の社会学』批評社、2004年)。
(4) 同上。
(5)『同和はこわい考』の中に出てくる「S君事件」(40~42頁)の「S君」こと澤山保太郎氏は、自身のブログ『室戸・東洋新聞』2021年12月27日で、この「事件」の経緯の詳細について語り、「藤田はなぜ真実をかたらないのだ。なぜ部落民を狂人のように恐ろしいものに仕立て上げるのだ。藤田の部落に対する偏見的想念は相当根深い。」と批判している。
(6)藤田敬一『同和こわい考』通信22号、1989年3月からの転載。
(7)沖浦和光氏は、第一の命題「部落差別の本質」の中で主張されている「主要な生産関係からの除外」について、「たんなる現象論であり、結果論である。」(師岡佑行/大賀正行/沖浦和光『部落解放理論の創造に向けて』解放新聞社、1981年、109頁)と指摘している
(8)エティエンヌ・バリバール/イマニュエル・ウォーラーステイン『人種・
国民・階級』(大村書店、1997年)参照。