部落解放論への提言

 前回のブログで引用した大西巨人の「部落解放運動と部落解放同盟とは、まったく同一概念ではない(二つの概念は、外延・適用範囲を異にする)。だが現実には、部落解放運動は、主として中心的に部落解放同盟によって従来担当推進せられてきた(現在も担当推進せられている)。そして同時に、部落問題の解決は、『国民的課題』である。」という言葉は、藤田敬一『同和はこわい考―地対協を批判する』(あうん双書、1987年)をめぐる「論争」の中での発言である。藤田のこの本の副題にある「地対協」とは、総務庁(設置当時は総理府)に設けられた地域改善対策協議会のことであるが、今回は、先の大西の発言をより深く理解するための前段として、『同和はこわい考』が出版される直接の引き金となった地対協・意見具申について見ておきたい。

 

『同和はこわい考』をめぐって

地対協・意見具申とその政治的背景

1986年12月11日、地域改善対策特別措置法(地対法)が翌年3月で失効するのを前にして、総理府の一機関である地対協は、中曽根首相と閣僚にあてて、「今後における地域改善対策について」と題する「意見具申」を提出した。この「意見具申」は、これまでの同和対策事業によって被差別部落(以下、部落)の劣悪な生活実態は大幅に改善され、心理的差別も解消に向っているという現状認識のもとに、1969年以来特別対策として続けられてきた同和対策事業の縮小・廃止と一般対策への移行という方針を打ち出した。

 よく知られているように、1980年に、当時の中曽根行政管理庁長官の下で、第二次臨時行政調査会(第二臨調)が設置され、企業負担の増加を抑制するために、財政支出の抑制、ゼロシーリング(予算を前年と同額にする)、企業に対する規制緩和、国鉄や電電公社の民営化などを打ち出した。その後、経済のグローバリゼーションと日本資本の海外展開、アメリカからのグローバル市場の秩序維持の軍事的分担要求に積極的に対応するために、1982年11月に成立した中曽根内閣は、ODA(政府開発援助)や軍事費の増額を捻出することをめざして、第二臨調で出された方針の規模をさらに拡大し、社会保障や文教費、公共事業の削減に手をつけた(1)。地対協の意見具申が強調した同和対策事業の縮小・廃止、一般対策への移行は、このような中曽根内閣が強力に推し進めていた臨調行革の路線を同和行政において具体化したものであった。

 しかも、「意見具申」の指摘は、財政上の問題だけにとどまっていなかった。新たに、①民間運動団体に追随している行政の主体性の欠如、②施策の実施が「同和関係者」の自立、向上をはばんでいること、③民間運動団体の「行き過ぎた言動」が「同和問題はこわい問題であり、避けた方がよい」という意識を生み、またそれを利用して「えせ同和行為」が横行していること、④民間運動団体の「行き過ぎた言動」が、「同和問題」についての自由な意見交換を阻害していること、の四つの問題が生じてきているとして、既存の行政の方向や民間運動団体(部落解放同盟)の運動のありかたの転換にまで踏み込んでいたのだった。

 この意見具申が言うところの「民間運動団体の『行き過ぎた言動』」とは、部落解放同盟の差別糾弾のことを指しているが、戦前においても、米騒動における部落民の「残虐性」や「暴民性」の捏造(2)、全国水平社の差別糾弾を「粗暴ナル行為」「暴行脅迫」とする見方の喧伝など、国家権力は部落に対する蔑視と恐怖とを結合した意識を民衆に植えつけることによって、民衆同士の分断や水平社運動の解体をはかろうとしてきた。しかし、戦後においては、政府機関が正面きって差別糾弾を運動の根幹にすえている部落解放同盟に対して、このような非難を行ったことはなかった。もし支配層が1960―70年代にこうしたことを明言したとすれば、必ずや部落解放同盟の強力な反撃に遭遇したのは間違いないであろう。それではなぜ意見具申は、全国水平社創立以来の部落解放運動の歴史そのものを否定するような主張を行うことができたのであろうか。

 戦後、経済復興をめざして開始された開発政策は、高度経済成長へと向うにつれて、産業政策というよりも、開発から取り残され周縁化されていく地域・産業・社会層の不満をしずめ、社会的政治的統合を進めていくための「福祉対策」に性格を変えていった(3)。このような開発政策の転換は、戦後復興から取り残されていった部落(とくに大都市の部落)に対する再分配政策の実施を強く求める行政闘争を展開していた部落解放同盟の方針に基本的には合致するものであり、ここに国の開発政策と部落解放同盟の開発運動が接合され、同和対策審議会答申(1965年)、同和対策事業特別措置法(特措法)の成立(1969年)として結実していった(4)。

 この特措法制定以降、部落解放運動は資源の再分配を求める開発運動(同和対策事業の獲得運動)という性格をさらに強め、差別事件も行政闘争に利用できる資源として位置づけられ、差別する側、差別される側の意識と関係性の変革という差別糾弾の本来の目的を喪失していった(5)。さらにまた、部落解放同盟という組織そのものも、特措法の存在を前提として、地元や業者の要求を「政府交渉」(政府からすると「集団陳情」)や地方自治体との交渉を通じて予算化し補助金を獲得することで成り立つようになっていった。このように、人間の尊厳を求め続けてきた部落解放運動は、「金の分配の政治」(6)に変換されていき、それにともなって部落と部落解放運動は大きく変貌していった。

 開発について、花崎皋平氏は「住民の生活と意識をカネの力でズタズタにし、拝金主義と利己主義がはびこらせ、抵抗する者を暴力で抑え込む強権的な支配をもたらした」(7)と指摘しているが、そうしたことは部落解放運動にも現出し、部落解放運動内部における「利権と暴力」「腐敗と堕落」現象の常態化が問題となり、「部落解放運動の現状は文字通り戦後最大の危機的状況にある」(8)と言われるまでになった。このようなことは、最も強力で巨大な潜在力を持ってきた部落解放同盟を管理し堕落させる方法として同和対策事業を採用した自民党のねらいそのものであり(9)、意見具申における部落解放同盟の国家への回収と部落解放運動の解体の方針は、こうした部落解放運動の状況を正確に読み切ったうえでのことだったと思われる。

 これに対して部落解放同盟は、意見具申の中に残事業を消化するための新たな時限法の制定が盛り込まれ、「法」打ち切りの危惧がいちおう解消されたことにより、部落解放運動が国家に呑み込まれていく危険をしっかりと認識することができないまま、「国家との対決を避け、国家に順応しながら運動を展開しよう」(10)と方針を示した。部落解放同盟中央機関誌『解放新聞』の編集長で作家の土方鐵は「わずかな餌で、魂を売ってはならない、意見具申を読んで、わたしはそう改めて思う。」(11)と警告を発したが、藤田敬一の『同和はこわい考―地対協を批判する』も、こうした危機意識にもとづいて出版されたのだった。

 

(1)渡辺治「高度成長と企業社会」(渡辺治編『日本の時代史27 高度成長

と企業社会、吉川弘文館、2004年)。

(2)詳しくは、黒川みどり『近代部落史 明治から現代まで』(平凡社新書)を参照されたい。

(3)町村敬志『開発主義の構造と心性』(御茶の水書房、2011年)。

(4)宮本正人「戦後部落の開発と文学者たち」(上)『革』第30号、201

9年3月。

(5)八木晃介「差別糾弾への憧憬と幻滅―わたしの生活史との関連で―」(『こ

ぺる』121号、2003年4月)。

(6)この表現については、栗原彬「水俣病という思想」(『立教法学』61号、

2002年2月、11頁)を参照。

(7)花崎皋平『[増補]アイデンティティと共生の哲学』(平凡社ライブラリ

―、2001年、22頁)。

(8)1981年12月18日に、部落解放同盟中央執行委員(当時)の西岡

智、駒井昭雄の両氏が連名で中央執行委員会に提出した「意見書」。

(9)色川大吉「自由民権百年―日本における差別の構造と自由民権運動」(色川大吉・小森龍邦『歴史における人間と革新―自由民権と部落解放―』部落解放同盟広島県連合会出版局、1983年、50―51頁)。

(10)師岡佑行『いま部落解放に問われているもの―現代部落解放論―』明

石書店、37―38頁)。

(11)土方鐵「魂は売らない」(『部落解放』1987年2月号。土方鐵『道

標―時時刻刻を紡ぐ』解放出版社、1995年収録)。