部落解放論の再構築に向けて

  作品自体が壮大な部落解放論ともいえる長編小説『神聖喜劇』の完成以降、作者・大西巨人は部落解放運動のあり方や差別意識、差別構造の問題について積極的に発言している。今回は、その紹介も兼ねて、私が文芸誌『革』第34号(2021年3月)に掲載した評論「大西巨人と部落差別問題(下)」から、大西の部落解放運動論に関して批評した箇所を転載する。この中で引用した「部落解放運動と部落解放同盟とは、まったく同一概念ではない(二つの概念は、外延・適用範囲を異にする)。だが現実には、部落解放運動は、主として中心的に部落解放同盟によって従来担当推進せられてきた(現在も担当推進せられている)。そして同時に、部落問題の解決は、『国民的課題』である。」「『各人の弱みや卑屈さをたがいに薄汚くいたわりあって衆を恃むような消極的連帯』でなく、『ひとりですっとたってゆ』く各人の積極的連帯が出来上がらなければならない」という大西の言葉は、部落解放論構築のための重要な提起として何度でも想起されねばならないだろう。

 

宮本正人「大西巨人と部落差別問題(下)」(『革』第34号、2021年3月)

『神聖喜劇』以後

 『神聖喜劇』の完成から6年後の1986年4月、大西は、「部落問題との出会い」を語ったなかで、「なるほど、私は、幼年のころ、『部落問題に出会った』と言えば言うことができるであろう。とはいえ、私は、それから現在まで、私が『部落問題』とどのような関係を保ってきたか、私が問題解明解決のため(言うに足るほどの)何を為してきたか、と省みると、内心忸怩たる物を覚え」(1)と述べている。

しかし実際には、「文学上の最初の発言」であった評論「『あけぼのの道』を開け」(『文化展望』1946年9月号。『大西巨人文選』1新生、みすず書房、1996年に収録)で部落差別問題を取りあげ、文学によって差別を固定または助長する「意識および無意識」を徹底的に打破するという「志」を明らかにしている。

 それから5年後に発表した『黄金伝説』(1954年)では、その「志」を作品上で具現化し、解放文学が描きださねばならない課題は何なのか、解放文学の創造のために必要なものは何なのかを、戦後の文学においてはじめて明確にした。さらに、『黄金伝説』で十分に深く表現しきれなかった自立と連帯のあり方や差別する側、差別される側の変革等の問題について、『神聖喜劇』(1955年―1980年)で全面的に追究し、四半世紀をかけて語り尽くした。

 このような大西の文学創造の原動力となっていたのが、差別に対する「おののくような怒りおよびかなしみ」という「私憤」であった。この「私憤」という感情・意識は、父親が巻き込まれた「事件」と部落差別、自分自身の結婚におけるハンセン病問題、『黄金伝説』のモデルとなった差別事件、長男への「特異体質障害を根拠とせる教育上の差別」等々、現実の差別との出会い・闘いを通して血肉化したものであったがゆえに、『神聖喜劇』が完結した後も持続されていた。

 1994年10月、12の物語で構成された短編オムニバス『五里霧』(講談社)が出版された。その中の「牛返せ」は、部落の反税闘争に対して牛の差し押さえを強行した税務署に抗議する「牛返せ」デモ(1949年に実際に行なわれたデモで、大西も参加していた)を題材にしていた。この「牛返せ」では、語り手である部落民・片瀬清二の一家が部落外に転出していて、父親がそこで自転車屋を開業していること、片瀬が幼時の頃に食品雑貨店の店主から代金を手渡しではなく四斗樽の水中に入れさせられるという屈辱的な経験をしていること、小学校高等科を卒業して新聞社に勤務、印刷工をしていたこと等、『神聖喜劇』の冬木照美とほとんど同じような設定がされており、冬木の「戦後」を見る思いがする。

 さらに注目すべきは、部落の「牛返せ」デモ隊に「現存」している「反権力的な衝迫」や、シュプレヒコールや税務署との交渉の合い間に沸き起こる部落の言葉による叫びの「一種のユーモア」とそれが状況を切り開く力となったこと等々が、片瀬の眼を通して語られていることである。こうした「反権力的な衝迫」や「一種のユーモア」は、部落が保持してきた生活文化に根ざしたものであり、大阪市内の部落を訪問した野間宏が「はげしいいかりと皮肉とユーモアのかもしだす、まったく他のところにはない、生活的な特別な文化的な活気」(2)と表現したのと同質のものである。  片瀬は部落外に生活している部落民であったからこそ、逆にこのような部落の特質に気づく眼を持てたのであり、大西はそのことを意識して描いたのではないだろうか。

このように、「牛返せ」は、これまで部落の生活文化の特質や可能性について本格的には取りあげてこなかった大西の新たな挑戦といえるものであった。そして、その挑戦は、小説だけではなく、部落解放運動のあり方に対しても向けられた。

 

「積極的連帯」の思想

 1986年、政府の部落問題の審議機関である地域改善対策協議会(地対協)は、「基本問題検討部会報告書」と「今後における地域改善対策について(意見具申)」の二つの文書を発表し、そのなかで、部落解放運動を根本的に否定し、今後部落問題の解決は国のリーダーシップですすめることを強調した(3)。

 この状況を危機と見た藤田敬一氏は、「地対協を批判する」という副題をつけた『同和はこわい考』(阿吽社、1987年)を出版し、これまでの部落差別の定義まで掘り下げて検討し、部落解放運動の実践課題を明らかにしようとした。  

この藤田氏の『同和こわい考』に対して、部落解放同盟中央本部は「『地対協路線』と同水準のものであり、国家権力と対決している時に部落解放運動にたいする味方の発言とは評価できない』(「『同和こわい考』にたいする基本的見解―権力と対決しているとき――これが味方の論理か」『解放新聞』1987年12月21日)と批判した(4)。

 このような状況のなか、大西は「『同和はこわい考』論議の渦中から」(『朝日ジャーナル』1988年5月号。『大西巨人文選』4遼遠、みすず書房、1997年収録)という論文を発表し、部落解放運動に対する考え方について、次のような重要な問題提起を行った。

 まず大西は、『同和はこわい考』は「部落解放運動の今日および明日にとって甚だ有意義な――書物」であると評価し、同書内容の「周到篤実な吟味の上」での取り入れは「新規高次の部落解放運動理論」構築に必要有益であると述べた。そして、部落解放同盟中央本部の見解に対しては、「『同和こわい考』に関する論争あるいは『吟味』が現に進行中――というよりもむしろ緒に就いたばかりで――あるとき」に、「早まった基本的見解」を決定・発表し、「『権力と対決しているとき』だの『敵前武装解除警戒』だのを口実に自己陣営の内部批判言論を抑圧封殺することは、その運動の発展ないし『主体の確立』を妨害阻止することにひとしい」と厳しく批判した。

 大西の指摘は、これだけにとどまらなかった。中央本部の「基本的見解」の中の「著者[藤田]がこれまで交わってきた運動らしきものとの、このましからざる関係によって」という表現を「傲慢無礼な言辞」と批判し、また、藤田の「随伴者的かかわり」という表現についても「卑屈奇怪な表現」と批判した。このような批判の背後には、「部落解放運動と部落解放同盟とは、まったく同一概念ではない(二つの概念は、外延・適用範囲を異にする)。だが現実には、部落解放運動は、主として中心的に部落解放同盟によって従来担当推進せられてきた(現在も担当推進せられている)。そして同時に、部落問題の解決は、『国民的課題』である。」という考えが存在していた。

 こうした大西の部落解放運動に対する考え方は、部落解放運動を部落民による組織的な闘いだけに限定するのではなく、たった一人でも部落差別と闘うと覚悟した個人のあらゆる活動にも視野を広げる重要な問題提起であった。そして、それはまた、大西が強調し続けた「『各人の弱みや卑屈さをたがいに薄汚くいたわりあって衆を恃むような消極的連帯』でなく、『ひとりですっとたってゆ』く各人の積極的連帯が出来上がらなければならない」(「雪の日」『五里霧』前掲、36頁)という「積極的連帯」の問題について、部落解放運動において「周到篤実な吟味」を行っていくことへの呼びかけでもあったのだった。このように見てくると、差別と分断を超える道を模索し続けた大西の「人間・言語表現者」(5)としての活動そのものが、部落解放運動と解放文学の実践であったといえるのではないだろうか。

 

(1)大西巨人「真の『出会い』に」(部落解放研究所編刊『出会い―私と部落300万人』1991年)。

(2)野間宏「被差別部落は変わったか―大阪市内の部落を再び訪れて」(『解放の文学 その根元―野間宏評論・講演・対話集』解放出版社、1988年、163頁)。

(3)地対協・意見具申の問題点については、師岡佑行『いま部落解放に問われているもの―現代部落解放論―』(明石書店、1987年)で詳細な指摘が行われている。

(4)『同和はこわい考』をめぐる論議については、次回のブログで取り上げる予定である。

(5)大西巨人「文部大臣への公開状」(『婦人公論』1971年7月号。『大西巨人文選』2途上、1996年、みすず書房収録)。