部落解放論の再構築に向けて

 2022年5月28日、部落解放論の展開と深化をめざして、第3期部落解放論研究会第1回研究会が開かれた。同研究会のこれまでの成果は、『部落解放論の最前線』(2018年)、『続 部落解放論の最前線』(2021年)と題する論説集として解放出版社から出版されているが、このような新たな部落解放論の構築という動きは、40年余り前にも起こったことがあり、その起点となった論文が師岡佑行「今日における部落差別についての理論的状況」(『解放新聞』1979年7月6日。師岡佑行・大賀正行・沖浦和光『部落解放理論の創造に向けて』解放新聞社編・刊、1981年収録)であった。

 この論文で師岡氏は、従来の部落解放理論が有効性を失い、しかも現状を解明するに足る理論が生れていないという状況認識にもとづいて、部落解放論に関して「理論的な中途半端な過渡期である」と述べ、「それまで理論的認識の外に置かれて、たかだがエピソードとして語られる『部落は人情が厚い』というような話を、網野善彦の中世史研究を媒介として、そこで提示された概念を部落に適用し」(1)、「部落はアジールであり、日本における『自由』と『平和』を脈々と保持する場」(2)という新たな被差別部落像を浮かびあがらせた。

 この〈部落=アジール〉論は、「同和行政の基本的指針たる役割を果たし、現在も、政府、地方公共団体はもちろん民間運動団体でも、この同対審答申について積極的評価を与えている」(3)といわれている同和対策審議会答申(1965年)に象徴される部落を「原始社会の粗野と文明の悲惨とをかねそなえた地区」「後進地区」と捉える見方の根本的な転換を迫るものであったが、その後、その切り口の重要性が十分に認識されることもないままに、いつの間にか忘れ去られてしまっているというのが現状ではないだろうか。

 こうした部落観の転換の他にも、師岡氏は、部落差別が「出自をかつての穢多、非人身分にもつ部落民に、加えられる不当極まりない差別」(4)であることから、「これを社会経済構成体の継起的発展という公式にあてはめ」、「資本主義になれば解消してしまう」という、「国民的融合論」に代表される考えを、「『歴史』の公式的理解に固執した一種の歴史主義」(5)と批判し、そこからの脱却の必要性を提言した。このような発言の背後には、「これまで、われわれが未来を展望するさい、疑うことなく抱いていた思想は、いってみれば生産力の発展が、そのまま人類の幸福につながるというオプティミズムであった。さきの部落差別についての理論的主張をはじめ解放理論の基調をなしているのはこれである。ところが、現在、われわれはいまの生産力の発展が持続されれば全地球の破滅さえ招きかねないという危機的状況のもとに置かれている。かつてない文明状況のなかあるといってよい。したがってこのもとでの部落解放理論は従来のオプティミズムを基調とした解放理論の発展としては有り得ない」(6)という従来の部落解放理論に色濃くついている「生産力主義」に対する強い危機意識があった。

 このように、師岡氏の提言は、部落解放論と密接に結びついていた「発展段階論」「生産力主義」「進歩史観」「一国史観」などの「戦後歴史学」そのものまでの批判を含んでいたが、その後、この点についての洗い直しも視野に入れた部落解放論の再構築が充分に議論され、展開されたとは言いがたいのではないだろうか。その意味で、師岡氏の提言から40年以上経った今日においても、「理論的な中途半端な過渡期」という状況はあまり変わっていないように、私には思える。

 さらにいえば、「部落問題を理論的に把握するには、従来のように歴史学に偏重したやり方ではなく、社会学、文化人類学、民俗学、宗教学、あるいは文学など、文化諸学による多角的なアプローチとその綜合による認識が必要」(『戦後部落解放論争史』第1巻、柘植書房、1980年、3頁)という師岡氏の指摘に関しても、これまで様々な取り組みが行われ、個別の分野では一定の成果があったものの、明示的なつながりが不十分であり、全体を包み込む部落解放論の構築という点では成功していないのではないだろうか。

 このような部落解放論の状況に対する私の認識にもとづいて、これから何回かにわたって、作品自体が壮大な部落解放論ともいえる長編小説『神聖喜劇』の作者・大西巨人が部落解放運動のあり方や差別意識の問題などについて論じた批評を読み解き、大西の解放運動論・解放理論を明らかにしたいと思う。次回では、その紹介も兼ねて、私が文芸誌『革』第34号(2021年3月)に掲載した論文「大西巨人と部落差別問題(下)」から、大西の部落解放運動論に関して批評した箇所を転載する。

 

(1)師岡佑行『戦後部落解放論争史』第5巻(柘植書房、1985年、41

0頁)。

(2) 同 「今日における部落差別についての理論的状況」(『解放新聞』1979年7月6日。前掲『部落解放理論の創造に向けて』21頁)。

(3)磯村英一「同和対策審議会答申」(部落解放・人権研究所編『部落問題・人権事典 新訂版』解放出版社、2001年、733頁)。

(4)師岡佑行「今日における部落差別についての理論的状況」(『解放新聞』1979年7月6日。前掲『部落解放理論の創造に向けて』15頁)。

(5) 同上、27頁。

(6) 同  『戦後部落解放論争史』第1巻(柘植書房、1980年、3頁)。