住井すゑの「水平社宣言」論(2)

 前回は、戦時下における天皇主義への傾斜や侵略戦争への支持という事実を無視した住井すゑによる西光万吉の理想化は、住井自身が敗戦前の作品で天皇崇拝を美化して描いていたことや戦争協力の効果をもつ作品を発表していたことと関連があることに言及した。今回は、住井が水平社創立宣言(以下、「宣言」)をどう読み解いたのかについて、ふたたび福田雅子(NHK大阪放送局チーフディレクター)との対談『水平社宣言を読む』(解放出版社、1989年)から見てみたい。その際、前回にも述べたように、「宣言」は西光のみが執筆したと住井が理解していた点に十分留意したい。

まず、「宣言」の全体的な評価について、住井は「日本のほこり得る文化財」「人類の詩」(ⅲ頁)と述べている。住井がこのように述べたのは、「宣言」が「人間は地球に存在することはいいことだという人間存在の公理を述べている。やはり哲学というか、物理法則にぴったり合っているということを言っている」(203頁)からであり、これも「西光さんのあの平等感は、宇宙を想定した考えがなければ出てこない。(略)無限の時間と無限の空間という大きな視野がなければ、水平社の思想は生れなっただろうと思うんです。」(147頁)という西光の理想化と結びついていた。

こうした「物理の法則」や「地球の法則」「自然の法則」という持論に基づいた住井の評価は一貫しており、「宣言」の「人間を尊敬することによって自ら解放せんとする集団運動を起せるは、寧ろ必然である」に関しては、「人間についてただ平等だとか、平和だとか言っているのではなくって、尊敬しあうという意味で平等だという思想ですね。というのは誰も意図して生れてくる人はいませんから、これは地球の法則である。この地球の法則というのは尊敬に値するものなんです。」(167頁)と述べ、「下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われた夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は涸れずあった」については、「ここで言う人間は宇宙の人類として皆同じであるということです。だから人間の血は涸れるわけはないのですよ。この宇宙でどういう制度をつくられようと、本来、人間の血は涸れるわけはない。」(199頁)と述べている。

「宣言」の歴史的意義と限界については、文芸誌『革』に連載している[解放文学の軌跡]の第4回「水平社創立宣言の世界的位置―セゼール、サルトル、ファノンを手がかりに―」で詳述したが、それを要約すると、「宣言」は祖先からの血の継承を中心とする考え方や女性の不在、植民地主義への無自覚等の限界があったが、自己を貶められた存在に仕立て上げた歴史をわがものとして受け入れ、自己の内部にある集団的記憶や苦難の歴史を、アイデンティティの回復や集団形成の積極的契機として再評価し、その上に立って他者を排除しない部落民の誇りと新たな連帯の可能性を示そうとしたものであった、というのが私の考えである(『革』第36号、2022年3月)。この評論では触れられなかった部落解放をめざす文学という視点からしても、「宣言」は、1871年の「解放令」以後の負の遺産のなかで、部落の人たちがどのように自己を認識するのかという問いに最も詩的な表現を与え、部落解放運動のなかで文学、芸術に志す人たちの礎を築いたという意味において、他に類を見ぬものであったといえる。

しかし、住井の場合は、「宣言」に即して、かつ「宣言」を内在的に理解しようとしたものではなく、西光への心酔と「物理の法則」「地球の法則」「自然の法則」という持論を核にして、そこから「宣言」に対する評価をつくりあげたものに過ぎなかった。したがって、その持論に基づいて「宣言」も繰り返し再解釈されることになる。たとえば、今日では男権主義的と批判されている「宣言」の「男らしき産業的殉教者」という表現に関しては、「男性中心社会の社会構造の中で知らず知らずのうちに身についてしまっている。」(189頁)と、その問題点を的確に指摘している一方で、西光が執筆した「ほんとうの草稿は『男らしき産業的殉教者』はなかったんではないかとも思っています。西光万吉さんの思想から考えてみますと、そうした考え方をもってもいいとも思っています。」(193頁)と発言している。

 英語でもフランス語でもドイツ語でも「人」は男であり、フランス革命の自由・平等・友愛も、性差については鈍感の思想であった。「宣言」に関しても、「痛みを分かち合って生きて来た女たちを意識の外に置き、性による差別には無とんちゃくであった」(1)ということが指摘されており、起草者の西光ひとりが例外であるわけはない。したがって、「男らしき産業的殉教者」に対する住井の解釈は、西光を歴史のヒーローにしたいという願望以外なにものでもないだろう。

 ところで、住井は自身が戦前から反天皇主義者であったことをよく語っていたが、この対談でも、小学校一年生の時に「天皇が陸軍大演習統監のため大和に来てうんこをたれた。これを大人たちがありがたがって拾ったわけです。それまで天皇を神様のように考えていた私は、『天皇もうんこするんだ。みんな同じ人間なんだ』と思うようになったんですね。」(21頁)と述べ、小学校三年生の時に大逆事件が公表され「幸徳秋水が私と同じことを言った。世の中には私と同じことを考える学者がいるんだと思って嬉しかった」(24頁)と発言している。しかし、敗戦前の作品において天皇崇拝を美化して描いていたことからすると到底事実とは考えられず、むしろ敗戦後における住井の天皇観の変化にもとづいて創り上げられたものではないだろうか。

それまで「ベストセラ―作家でありながら、文壇の外にいたせいか、文学批評の対象にならなかった」(2)住井であったが、このような発言を行っていた当時は、「反天皇制、反差別のシンボルとしてもてはやされ、講演や対談、エッセイ集が次々と出版された。対談の相手には、永六輔や、澤地久枝、石牟礼道子、野坂昭如らに加え、毎日新聞の論説委員を務めた次女、増田れい子もいた」(3)。こうした中で、90歳近くでブレークし、「反天皇主義者」「生命の尊さと平等を熱く語り続けた信念の人」としてまつりあげられた住井は、そのような「住井すゑ像」そのものとして生き始め、至るところで持論を展開したのではないだろうか。それが時には、「部落の人はなるほど目の色が違いますよね。」「あのう部落というのは美男美女が多いんですよね。」「(一般の人と)結婚しない。部落同士結婚する」「血は純粋なわけですよね。」(4)など、部落差別問題の認識を疑われるような人種主義的な放言となり、「住井すゑは、小説『橋のない川』を、これらの放言に示されている差別意識をもって書いた。」(5)と非難されることになったのだった。このように見てくると、ブレークして以降の住井の「思想」から小説『橋のない川』を判断すると、大きな混乱に陥ることは間違いないだろう。

1964年4月に出版された『橋のない川』の第4部の「あとがき」に、住井は「昭和32年7月21日、三十年にわたる闘病の末に死んだ。それは私にとって一つの転機だった。私は身辺整理の意味で『愛といのち』『向かい風』の稿をまとめ、翌33年、夫の遺骨を青山の『無名戦士の碑』に合葬してもらうと、その足で部落解放同盟を訪れた。五十年間抱きつづけてきた主題―部落問題に余生をかけたい念願からだった。」と書き記している。この胸の内を語った住井の言葉は真実とみて間違いなく、それに応えるためには、やはり、『橋のない川』という作品だけを対象にし、そこからそれが書かれた時代との関連を読み解かねばならないと思う。

 

  1. 伊藤雅子『まっすぐに生きるために』(未来社、1987年)。

  2. 江刺昭子「武道館を埋めた作家がいた 戦争責任には沈黙 『差別』横行する時代に再評価を」(『47NEWS』2019年6月19日)

  3. 同上。

  4. 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦『天皇陵の深層』(三一書房、1994年)。

  5. 金静美『故郷の世界史』(現代企画社、1996年)。