住井すゑの「水平社宣言」論(1)

 2年ほど前から文芸誌『革』に[解放文学の軌跡]という評論を連載している。今年の3月には、その第4回として「全国水平社創立宣言」(以下、「宣言」)を取りあげ(「水平社創立宣言の世界史的位置―セゼール、サルトル、ファノンを手がかりに―」『革』第36号)、これに続いて、島崎藤村『破戒』や住井すゑ『橋のない川』などの批評を予定している。このうち、『橋のない川』に関しては、「宣言」が作品の重要な柱となっていることから、作者・住井すゑの「宣言」に対する考え方を知りたくて、住井すゑと福田雅子(NHK大阪放送局ディレクター)との対談『水平社宣言を読む』(解放出版社、1989年)を読んでみた。以下に住井の発言を紹介しつつ、「宣言」に関して先の評論では余り詳しく触れることができなかった点について述べてみたい。

 まず、「宣言」の文章について、住井は「宣言文を書いたのは西光さんですが、その思想はマルクス主義やキリスト教、老荘思想の影響が入っているけれども、「その根本は仏教」と発言している(同書、145―147頁)。しばらく前まで「宣言」は西光万吉のみが執筆したとされ、「宣言」に流れている思想も西光との関連で評価されていたが、住井の発言もそうしたものの一つである。 

しかし、今日においては、「宣言」は西光が起草した原案に平野小剣が「大添削」を加えて完成したということが明らかにされており(1)、何よりも西光自身が死去する3年前の1967年に「水平社を創立するについて、もとより大会宣言がいりますから、その宣言をつくるについて私は気になって前から幾度も書いたり消したりして居ました。それで、当時平野さんに大添削をしていただいても、それ程に思わず忘れてしまったのでしょう。(略)平野様と皆様にお詫び申上げます。生きているうちにお詫びできてよかったと喜んでいます。」(2)と証言している。

その平野が「大添削」した部分について、大阪人権博物館館長の朝治武は、「これまで指摘されていたように、全国水平社創立宣言の『吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった』は、民族自決団檄(全国水平社創立大会が開催される一年余り前に平野が作成した檄文―宮本)の『我等民族の祖先は最も大なる自由と平等の渇仰者であって、又実行者であった』と酷似していることから、平野の文章としたい。②宣言の『陋劣なる階級政策の』から『なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった』までは、労働運動を実践した者ゆえの労働に対する深い自負と心を感じさせ、かつ部落差別と社会への反逆を基本としていた者の文章として意味があると考えられるので、ほとんどが平野の文章ではなかろうか。③『吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ』『吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ』は、部落差別の犠牲となった祖先を辱しめてならないという歴史認識と、民族意識にも似た強い部落民意識、部落民の誇りを主張していた平野の思想を基本とした文章ではなかろうか。」(3)と推定している。

 平野の「民族自決団檄」については、私も先の評論で、当時一般的であった部落に対する人種差別主義的な認識と闘うために、戦略的に祖先からの血の継承を中心とする考え方を柱にして構成されており、それゆえに「人間の多様性や複雑さの拒絶という問題を内包していたが、部落民の『呪詛、激怒、絶望、復讐』の念と可能性とに表現を与えたものであり、(略)水平社創立宣言の序曲と呼べるものであった」(4)と評価しており、この朝治の推定は極めて適切なものだと思う。

 そもそも「宣言」と「民族自決団」との「酷似」の問題については、すでに1954年に井上清が「『吾々の祖先は自由平等の渇仰者であり・・・』の一段や終りの方の卑屈になって祖先をはずかしめるなという段が、ともに前あげた平野の『民族自決団』の文と同一の考え方であることも明白」(部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動』同研究所刊、1954年、224頁)と指摘している。この本が戦後はじめての部落史の通史としてよく読まれていたことからすると、雑誌『部落』1959年1月号に『橋のない川』を連載しはじめた住井も、部落の歴史に関しては当然これを参考にしていたものと思われる。しかし、住井はこの井上の指摘を知らないのか、あるいは無視したのか、「宣言」を西光と結びつけてのみ解釈している。住井が「人間の命を最高に大事にしようとされた西光さんは、最高の文化人」(『西光万吉著作集 月報』1、1971年4月、9頁)と礼賛していることからすると、おそらく西光への心酔がそうさせたのではないだろうか。

 しかも、住井による西光の美化はそれだけにとどまらなかった。1928年の3.15事件で検挙された西光が獄中で「『マツリゴト』についての粗雑な考察」という共産党からの転向声明を行ったことについて、「転向した、転向した、と人は云いますけども、共産党に転向はあり得ても、部落に転向はないはずです。部落から転向したらいったい何になるのでしょう。」(同前、9頁)と転向に関する論点をすりかえて否定し、さらには、「人間の命を尊敬することから戦争を否定した西光さん」(同前、9頁)とも語り、西光が「こんにち、忠勇なる皇軍が捧げて、中国の民衆に太陽の回帰を告げる旭日軍旗も、また大和御平定の金鵄と同じうするものは論をまたぬ」(5)と述べて中国侵略を支持していた事実を無視し、隠蔽している。

 『橋のない川』における天皇制への異議申し立てについては、敗戦前の作品で住井が天皇崇拝を美化して描いていたこと、あるいは戦争協力の効果をもつ作品を発表していたことの隠蔽・回避との関連が指摘されているが(6)、西光の美化もそうした態度と同じだと言えるだろう。このような過去の過ちや欠点を隠蔽した西光の美化は、住井だけでなく、一部の部落解放運動の関係者の間にも見られるが、こうした形での西光の理想化は、「無意識裡に自分を義人化する偽善を生みだし、まつりあげた相手をも堕落させるおそれがある」(7)のは間違いないだろう。

しかし、西光自身は、1947年に書き上げた「略歴と感想」(8)の中で、転向とその後の国家社会主義、天皇主義への傾斜、侵略戦争への加担を認め、特に戦争協力の問題については「生れていまだないほどの深い恥じらいと慚愧と悲しみに沈んだ。私はただ祖国が戦いに敗れたから恥じ悲しむのではない。日本がその悪業のために敗れ、自分がその悪業を浄化するための真の智恵と気力を欠いて、その悪業に引きずられていたからである。日本の悪業は、分に相応した私の悪業にほかならぬ。」と述べ、自らの過ちや欠点について真摯に向き合おうとしていた。戦後の西光の絶対平和主義、非武装中立を柱とする「和栄政策」の実現を訴える運動は、この自らの「悪業」に対する「深い恥じらいと慚愧と悲しみ」の経験をくぐることなしにはあり得なかったのである。

西光の評価を行うにあたっては、政治的利用のために過去の過ちや欠点を隠蔽・回避して称賛したり、その反対に否定的な側面をむやみに強調して非難することなどではなく、人間としての西光をあるがままに等身大でとらえることから始めるべきであろう。そうすることによって、西光から真に学ぶべきものが見えてくるはずである。

 

(1)詳しくは朝治武『水平社の原像 部落・差別・解放・運動・組織・人間』(解放出版社、2001年)を参照されたい。

(2)西光万吉「『水平社宣言』について」(『部落』第216号、1967年5月、55頁)。

(3)朝治武、前掲書、26―27頁。

(4)宮本正人「「水平社創立宣言の世界史的位置―セゼール、サルトル、ファノンを手がかりに―」『革』第36号、2022 

   年3月、25頁)。

(5)西光万吉「事変下に金鵄を語る」(『学生・青年運動』1942年3月。『西光万吉著作集』濤書房、1974年収録、

   92―93頁)。

(6)加賀谷真澄「『橋のない川』における内地在住朝鮮半島出身者―戦後的再構築としての被差別部落民との共闘関係」(『文

   学研究論集』27号、筑波大学比較理論文学会、2009年2月)。

(7)「被差別者の美化」の問題についての花崎皋平の指摘『[増補]アイデンティティと共生の哲学』(平凡社ライブラリー、

   2001年、123頁)。

(8)西光万吉「略歴と感想」(「西光万吉集」編集委員会『西光万吉集』解放出版社、1990年収録、386頁)。