瀬川丑松の告白とその評価

瀬川丑松の告白は、12月1日午後の国語の時間、自分が担任している高等四年(15,6歳)の生徒に対して行われた。丑松は「御存じでしょう」「御存じでしょう」と過剰にへりくだりつつ、「この山国に住む人々」の中に「穢多という階級」があること、そして「その穢多」の居住地、生活、部落外の人間との交流のあり方などを話して、「まあ、穢多というものはそれ程卑賤しい階級としてあるのです。もしその穢多がこの教室へやって来て、皆さんに国語や地理を教えるとしましたら、その時皆さんはどう思いますか、皆さんの父親さんや母親さんはどう思いましょうか――実は、私はその卑賤しい穢多の一人です。」と告白し、それに続けて次のように語りかける。

   [「これから将来、五年十年と起って、稀には皆さんが小学校時代のことを考えて御覧なさる時に――ああ、あの高等四年の教室で、瀬川という教員に習ったことが有ったッけ――あの穢多の教員が素性を告白けて、別離を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じように屠蘇を祝い、天長節が来れば同じように君が代を歌って、蔭ながら自分等の幸福を出世を祈ると言ったッけ――こう思出して頂きたいのです。私が今こういうことを打ち明けましたら、定めし皆さんは穢しいという感情を起すでしょう。ああ、仮令(たとい)私は卑賤しい生れでも、すくなくとも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛け教えて上げた積りです。せめてその骨折に免じて、今日までのことは何卒許してください。」

   こう言って、生徒の机のところへ手を突いて、詫入るように頭を下げた。  

  「皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒父親さんや母親さんに私のことを話してください――今まで隠蔽していたのは全く済まなかった、と言って、皆さんの前に手を突いて、こうして告白けたことを話して下さい――全く、私は穢多です、調理です。不浄な人間です」とこう添加して言った。

   丑松はまだ詫び足りないと思ったか、二歩三歩退却して、「許して下さい」を言いながら板敷の上へ跪いた。](新潮文庫版『破戒』379―380頁)

この告白の場面について、岩波文庫『破戒』の解説で、野間宏は「『破戒』というのはこのようなことなのだろうか。破戒とは父のさずけた戒の意味を根底からくつがえす心をもって、自らその戒を破り去り、父にそのような封建的な戒をもたらせたもの、不合理な社会にたいするたたかいを宣言することでなければならない。テキサスへ新天地を求めるなどというのは、逃げて行くことを示すものにほかならない。」(1)と述べている。

さらにまた、「丑松は、ここでは、人間宣言・部落民宣言をこそ、するべきであった」と野間と同じような主張を行った土方鐵は、「丑松は、あの告白のあと、お志保をたずねている。」、「ならば、どうして仙太に、声をかけてやらないのか。(略)/丑松は、少年仙太にこそ、声をかけてやるのが、人間として自然なのではないか。/こういったところにも、藤村の人間の捉えかたに、欠点をみることができる。」(2)と付け加えている。

 たしかに土方が言うように、告白のあとには部落の少年・仙太の姿が消えている。それだけではなく、告白そのものに関しても、「私はその卑賤しい穢多の一人です」というような卑屈な言葉が、この学校にこれからも通う仙太に対してどのような影響を与えるかという問題が抜け落ちている。「いよいよ明日は、学校へ行って告白(うちあ)けよう。教員仲間にも、生徒にも、話そう。そうだ、それを為(す)るにしても後々までの笑い草なぞには成らないように。なるべく他に迷惑を掛けないように」(362頁)と決心したのであればなおさらである。これまでにも述べたように、こうした問題は、困難な立場に置かれている人たちに対する藤村の感性のあり方が反映されており、土方が指摘している通り、「こういったところにも、藤村の人間の捉えかたに、欠点をみることができる」のは明らかといわなくてはならないだろう。

このような野間や土方の批判は、部落解放という視点から丑松の告白の問題点をついたものである。私自身も、少なくとも丑松は「同族の受けた種々の悲しい恥、世にある不道理な習慣、『番太』という乞食の階級よりも一層劣等な人種のように卑められた今日までの穢多の歴史」(348頁)を語り、「何故、新平民ばかりがそんなに卑められたり、辱められたりするのであろう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入りが出来ないのであろう。何故、新平民ばかりがこの社会に生きながらえる権利が無いのであろう」(342頁)ということを訴えるべきであったと思う。

にもかかわらず、実際に行なわれた告白は、あのような卑屈で無様なものに終わってしまっている。このことについて、土方は、大日向の放逐や猪子の殺害に触れて、「土下座して謝ったというのは、当時のきびしい状況からいえば、おそらくリンチにあうのじゃなかろうかというところからきた、当然の行為とも思われるんですね。」(3)と指摘している。しかし、『破戒』という作品は、丑松がそのような「きびしい状況」を乗り越えて告白を行うところに重要な意味がこめられているのであって、土方の見解は適切なものとはいえない。

それでは猪子の「我は穢多なり」を実行した丑松の告白は、なぜあのようなものなったのであろうか。この問題については、『破戒』が国民統合と国家イデオロギーの浸透がはかられていた日露戦争の時期に書かれていたこと、「穢多」は「卑賤しい」ものであり、そこからの脱出口は文明化=国民化を通じての立身出世にあるということを当然視することによって作品が成り立っていることに、目を向ける必要があると思う。

土下座して謝罪する前に、丑松は「仮令(たとい)私は卑賤しい生れでも、すくなくとも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛けて教えて上げた積りです。せめてその骨折に免じて、今日までのことは何卒許して下さい」と語っている。小学校教員としての丑松が「国語」や「地理」で教えようとした「立派な思想」とは、「国体」思想であり、天皇制国家の「臣民」としての思想であった。そのような「臣民」を養成する役割を担っている自分が、「素性」を「隠蔽」するという「臣民」として恥ずべき行為をしていたということに深い自責の念を抱いて、丑松は生徒たちに「土下座」をしたのではないだろうか。

また、丑松は「あの穢多の教員が素性を告白けて、別離を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じように屠蘇を祝い、天長節が来れば同じように君が代を歌って、蔭ながら自分等の幸福を出世を祈ると言ったッけ――こう思出して頂きたいのです」と語っている。この言葉についても、「一君万民」の思想のもとでの「日本国民」としての「同じ」の主張であり(4)、「帝国の機構の運転者」ともいうべき道を歩んできた丑松の「臣民宣言」として理解できるだろう

部落解放の観点から土方は「文学作品として丁寧に読んでいくと、作品の必然としての、丑松像から、この告白の場面での、ことばや、姿勢・態度は大きくはずれている」と述べ、このような「作品そのものの、当然の帰結を、主人公が裏切っている」理由を「リンチをも予想する」状況に求めたが(5)、「臣民」であり、「帝国の機構の運転者」である丑松像からみれば、丑松の苦悩や葛藤、告白の場面、「テキサス」行き等の最後の結末は、すべてひとつのものにつながっていたのだった。

 

注 

(1)野間宏「『破戒』について」(『解放の文学 その根元―野間宏評論・講演・対話集』解放出版社、1988年、53―54頁)。

(2)土方鐵『解放文学の土壌 部落差別と表現』(明石書店、1987年、90頁)。

(3) 同上、91頁。

(4))高榮蘭「総力戦と『破戒』の改定」(『戦後というイデオロギー』藤原書店、2010年、204頁)参照。

(5)土方鐵、前掲書、93頁。