瀬川丑松の告白の道程

 これまでに様々な意見が出されている丑松の告白の場面(『破戒』の第二十一章)について考えてみたいが、その前に、告白に至るまでの経過をまず見ておこう。

 大日向の差別事件を契機として部落民意識に目覚めた丑松は、幾度も尊敬する猪子に「身の素性」を告白しようとするが、秘密

が漏れて拡散するのを恐れて告白できない。そのような自分に丑松は罪悪感を覚え、精神的に追い込まれていく。その一方で、校

長、勝野文平、さらには高柳や準教員らによる身元暴きの動きが進み、「酷烈(はげ)しい、犯し難い社会の威力」が次第に丑松

の身に迫ってくる。そうした中で、丑松は、「猜疑」と「恐怖」から行ってきた「隠す」という行為が「虚偽」であり、「良心」

や「精神の自由」に反するものであり、自分自身の「内部の生命」の発達を阻害すると考え、「言うべし、言うべし、それが自分

の進む道路では有るまいか。」と決意する(新潮文庫版『破戒』168―169頁)。

こうして、丑松は勝野文平の「猪子蓮太郎だなんて言ったつて、高が穢多じゃ

ないか」「あんな下等人種の中から碌なものの出よう筈がないさ」という差別発言に対しても、「それが君、どうした」、「噫、開化した高尚な人は、予め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業等に従事している。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生などはそんな成功を夢にも見られない。はじめから野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に立っているのだ。その概然として心意気は――ははははは、悲しいしゃないか、勇ましいじゃないか」と切り返し、精一杯の抵抗を試みる(329―331頁)。

 この後も、丑松は自分が「身の素性」を隠さねばならない人間であることを忘れるわけには行かず、告白することによって放逐されるか、それとも死か、と独りで苦しみ続ける。そして、自殺する前に「せめて、あの先輩だけに自分のことを話そう」と思い着くが、猪子は演説会の帰りに高柳派の壮士たちに襲われ、命を落とす。猪子に告白しなかったことを後悔した丑松は、猪子の生涯と自分の歩んできた道を比べて、次のように考える。

 

   ・・・さすがに先輩の生涯は男らしい生涯であった。新平民らしい生涯であった。有のままに素性を公言して歩いても、それでも人に用いられ、万許されていた。「我は穢多を恥とせず」――何というまあ壮(さかん)な思想だろう。それに比べると自分の今の生涯は――

   その時に成って、始めて丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽(かく)そう隠蔽そうとして、持って生れた自然の性質を銷磨(すりへら)していたのだ。その為に一時も自分を忘れることが出来なかったのだ。思えば今までの生涯は虚偽(いつわり)の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ――何を思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。(359頁)

 

 部落出身者が他人と親密な関係を結ぼうとした時、部落出身であることを告白するか、あるいは、後ろめたさを覚えながらも

白せずにやりすごすか、いずれかに追い込まれるということがある。藤村はこのような部落民の中に見られる心理を的確に捉

え、表現していた。また、悪意をもって身元を暴き、丑松を追い込もうする校長、勝野文平、高柳、準教員に関しても藤村の視

線は鋭く、これらの人びとは間違いなく差別者としての肉体を持ち、心理も持っている人物として描かれている。その一方で、

丑松が「戒」に抗う思想とした猪子の「我は穢多を恥とせず」については、「何というまあ壮(さかん)な思想だろう」と述べ

られているだけである。猪子が公言していた「我は穢多を恥とせず」にせよ、「我は穢多なり」にしろ、このような思想にたど

りつくには、みずからが部落民であることを引き受け、肯定すること、すなわち、自らが内面化している差別意識や卑下心と向

き合い、それを変革しようとすることが不可欠である。しかし、先に見たように、猪子は「いくら吾儕(われわれ)が無智な卑

賤(いや)しいものだからと言って、蹈付(ふみつ)けられるにも程がある」(191頁)と差別する側の穢多を恥とす

る」価値観を受け入れたままである。このように、「我は穢多なり」「我は穢多を恥とせず」という言葉の重要性を見抜いて物

語のカギとなる場面でくり返し言及した藤村であったが、当時の部落民の脱賤の努力が「自らの自助努力で生活習慣を改めるこ

とで“同じ”に見なされようとする段階であった」(1)とはいえ、部落民衆に対する野蛮視・劣等視に内縛されていたため

に、それを具現化するために必要なイメージを与えることはできなかった。こうして、自分たちを卑下し、自分たち自身を差別

するという致命的な問題点を持ったまま、丑松は告白に向うことになった。

 

(1)黒川みどり「差別のありようとそれへの向き合い 歴史学の視点から『破戒』を読む」(『部落解放』566号、2006年6月、41頁)。