『破戒』をめぐる諸問題(9)

瀬川丑松と猪子蓮太郎の矛盾

 『破戒』の第二章は校長と郡視学による丑松の排除と差別的な会話の場面であったが、第一章の冒頭にも差別事件の場面が描かれている。その差別事件とは、次のようなものである。

飯山の病院に入院した大日向という金持ちが「彼は穢多だ」ということで、他の入院患者から「放逐して了え。今直ぐ、それが出来ないとあらば吾儕(われわれ)挙(こぞ)って御免を蒙る」と院長を脅かす騒動を起され、もと居た丑松の下宿に戻ってきた。そこでも「さあ今度は下宿のものが承知しない。丁度丑松が一日の勤務を終って、疲れて宿へ帰った時は、一同『主婦(かみさん)を出せ』と喚き立てるところ。『不浄だ、不浄だ』の罵詈は無遠慮な客の唇を衝いて出た。『不浄だとは何だ』と丑松は心に憤って、蔭ながらあの大日向の不幸を僯(あわれ)んだり、道理(いわれ)のないこの非人扱いを概(なげ)いたりして、穢多の種族の悲惨な運命を思いつづけた――丑松もまた穢多なのである」(6―7頁)。こうして大日向は下宿先からも放逐されることになって、籠に舁がれて下宿を去る時、「『ざまあ見やがれ』/これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であった」(13頁)。

 この大日向の差別事件について、藤村は「紫屋の主人という穢多の方の大尽に彼様(ああ)いうことがあったのを書いて見たのである。尤も飯山にあったのではなく、越後の高田にあった事実である。」(1)と語っているが、藤村は作品の構成を綿密に計算して、地域社会における差別事件を第一章に、小学校内の差別の状況を第二章に置くことで、丑松が生活していた空間の差別の状況を最初に明確化しようとしたものと思われる。そして、そこからさらに差別事件が丑松に与えた衝撃が描かれ、作品のテーマがより鮮明にされる。

 それまでの丑松は師範学校への入学のために親元を離れる時に、父親から聞かされた先祖の話や「隠せ」という「戒」も、「『阿爺が何を言うか』位に聞き流して」(15頁)、「官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、ただ先祖の昔話としか考えていなかった」(19頁)。「長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となったまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じような量見で、危いとも恐ろしいとも思わずに通り越してきた」(15頁)。

こうした部落差別の問題を他人事として生きてきた丑松の考えが一変するのが、先の大日向に対する差別事件であった。この差別事件に遭遇した丑松は「不浄だとは何だ」という部落差別への憤りとともに、「哀僯、恐怖、千々の思は烈しく丑松の胸中に往来した。病院から追われ、下宿から追われ、その残酷な待遇と恥辱とを受けて、黙って舁がれて行く彼の大尽の運命を考えるともさぞ籠の中の人は悲概(なげき)の血涙に噎(むせ)んだであろう。大日向の運命は穢多の運命である。思えば他人事では無い。」(13―14頁)というような思いを抱き、これまで「忘れ勝ち」であった「戒」も「今は自分から隠そうと思うようになった」(15頁)。 

このように、藤村は、「道理のない」差別に対する人間的な憤りとともに、恐怖、絶望、身元隠しへの傾斜など、部落差別に遭遇した人間が持つ複雑な感情を見事に表現していた。この大日向の差別事件は、蓮華寺の住職が養女のお志保に言い寄っていたことを奥様から告げられた後に、丑松が町を彷徨する場面でも詳しく再現されているが(第十九章)、ここで注目する必要があるのは、これが引き金となって引き起こされた恐怖を「ああ、ああ、捨てられたくない、非人あつかいにはされたくない、何時までも世間の人と同じようにして生きたい」(348頁)と考え、丑松が「穢多の種族の悲惨な運命」を思い起こしていることである。

   ――こう考えて、同族の受けた種々の悲しい恥、世にある不道理な習慣、「番太」という乞食の階級よりも一層劣等な人種のように卑められた今日のまでの穢多の歴史を繰り返した。丑松はまた見たり聞いたりした事実を数えて、あるいは追われたりあるいは自分で隠れたりした人々、父や、叔父や、先輩(猪子のこと―宮本)や、それからあの下高井の大尽(大日向のこと―宮本)の心地を身に引比べ、終には娼婦として秘密に売買されるという多くの美しい穢多の娘の運命などを思いやった。(348頁)

全国水平社が創立されてから2年後の1924年に出版された『特殊部落一千年史』の中で、著者の高橋貞樹は、「特殊部落民の権利を宣言し、哀願的態度を放棄して、一切の因習を破壊せんとする水平社の運動の底に一貫するものは、同胞を差別する意味なき歴史的伝統に対する憤激の涙と怒りである。」(2)と述べている。全国水平社が創立される15年余前に、藤村が厳しい差別に直面した部落民の中に芽生える「同胞を差別する意味なき歴史的伝統に対する憤激の涙と怒り」という意識を捉えて、それを丑松の感情として表現したことの文学的価値は、はかり知れないものがあるだろう。

 しかし、そのような丑松の部落民意識には大きな綻びあった。父親に深手を負わせた種牛の最後を見届けるために屠牛場を訪

れた時、「屠夫」として働いている部落の人たちに対して、丑松は「いずれ紛(まが)いの無い新平民―殊に卑賤しい手合と見

えて、特色のある皮膚の色が明白(ありあり)と目につく。一人々々の赤ら顔には、烙印が推し当てて有ると言ってもよい。中

には下層の新平民に克(よ)くある愚純な目付を為ながら是方(こちら)を振り返るもあり、中には畏縮(いじけ)た、兢々

(おずおず)した様子で盗むように客を眺めるものもある。」(177頁)と、人種差別的な視線を向けており、また、自

分自身に対しても「卑賤しい穢多の子の身である」(363頁)と卑下している。

言うまでもなく、こうした部落民を見つめる丑松の視線は差別する側の視線と変わりはなく、その部落民意識は分裂している。こうしたことは、彼が明治維新までは「40戸ばかりの一族の『お頭』と言われる家柄」で、祖先は朝鮮、中国、ロシアからの「異邦人の末」ではなく、その血統は「古の武士の落人の落人」で「罪悪の為に穢れたような家族ではない」という父親から聞かされた人種、血統などに関する差別する側と同じ規範をそのまま受けとったことから生じたものだった(3)。志賀直哉が「一体丑松はえたなのか?えたでないのか?(略)丑松は本当はえたぢゃないんだらう?」という疑問を抱いたのは、このためであった。
 同じようなことは、「我は穢多なり」「我は穢多を恥とせず」と公言して部落差別に抵抗する猪子蓮太郎にも見られる。「古
い穢多の宗族」で、長野の師範学校の心理学の講師をしていたと設定されている猪子も、貧しい部落において一代で富を築いた六左衛門の娘と選挙資金欲しさに「政治的結婚」した高柳の行為に対して、「いくら吾儕(われわれ)が無智な卑賤(いや)しいものだからと言って、蹈付(ふみつ)けられるにも程がある」(191頁)と差別する側の穢多を恥とする」価値観を受け入れた形でしか平等の主張を行えていない。

このような部落民を見つめる丑松や猪子の視線の分裂は、先に述べたような藤村が抱いていた人種差別的な部落観によってもたらされたものだった。藤村はこの自己矛盾にこそ目を向けるべきであったが、このことの認識と自覚をまったく欠如させたまま、丑松に「戒」を破らせることになるのだった。

 

(1)島崎藤村「山国の新平民」(塩見鮮一郎編『被差別小説傑作集』河出文庫収録、88頁)。

(2)高橋貞樹『被差別部落一千年史』(岩波文庫、1992年、255―256頁)。

(3)高榮蘭「総力戦と『破戒』の改定」(『「戦後」というイデオロギー』

藤原書店、2010年、201頁)参照。