「帝国の機構の運転者」としての丑松(2)

前回のブログで触れたように、藤村は、丑松を父親に託された立身出世の夢を叶えた人物として設定していた。その意味で丑松は、日露戦争に日本全土が沸き立つ中で代用教員として立身出世の夢も破れ、国家の大事に加わることもできず、煩悶する日々を重ねながら、結核でひっそりと死んでいった田山花袋の『田舎教師』の主人公・林清三とは対照的である。橋川文三は、明治中期以降の青年がおかれた状況について、「一つは帝国主義・資本主義社会のイメージに同化しようとする『成功青年』の傾向と、もう一つは自己内心の衝動に沈潜しようとする『煩悶青年』の傾向」(1)とに分類しているが、そうした点から見れば丑松は「成功青年」の部類に位置づけられるだろう。

そのような丑松は、「主座教員」として学校における行事でも次のような役割を担っていた。藤村は「さすがに大祭日だ。町々軒は高く国旗を掲げ渡して、いずれの家も静粛にこの記念の一日を送ると見える。」(86頁)と、11月3日の天長節(1873年に明治天皇の誕生日を祝って国家の祝日として設定)を祝う町の光景を簡潔に記した後、小学校における「天長節」の儀式を次のように詳しく描いている。

   国のみかどの誕生の日を祝うために、男女の生徒は足拍子を揃えて、二階の式場へ通う階段を上った。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四年を、いずれも受持々々の生徒を引き連れていた。退職の敬之進は最早客分ながら、何となく名残が惜まるるという風で、旧の生徒の後に随いて同じように階段を上るのであった。(87頁)

        (略)

  「気をつけ」

   と呼ぶ丑松の凛とした声が起った。式は始まったのである。

   主座教員としての丑松は反って校長よりも男女の少年に慕われていた。丑松が「最敬礼」の一声は言うに言われぬ震動を幼いものの胸に伝えるのであった。やがて、「君が代」の歌の声の中に、校長は御影(「御真影」。天皇や皇后の肖像写真―宮本)を奉開して、それから勅語(教育勅語―宮本)を朗読した。万歳、万歳と人々の唱える声は雷のように響き渡る。その日校長の演説は忠孝を題に取ったもので、例の金牌は胸の上に懸って、一層その風采を教育者らしく見せた。「天長節」の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあったが、これはまた場馴れているだけに手に入ったもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、こういう一場の挨拶ですらも、人々の心を酔わせたのである。

   平和と喜悦とは式場に満ち溢れた。(88―89頁)

こうした「天長節」の儀式は、教育勅語の翌年に制定された、「御真影」への拝礼、教育勅語奉読、君が代斉唱などを内容とする「小学校祝日大祭日儀式規定」にもとづいて進められていた。宗教学者の島薗進は「1890年に教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば『皇道』が、国民の心と体の一部になったのです。」(2)と語っているが、そのような政治的意図が存在していた学校での行事や集会で丑松は「主座教員」としての任務を忠実に遂行していた。

さらに注目したいのは、丑松が担当していた教科が「国語」と「地理」であったということである。「国体」思想を貫徹させるために教科の中でも特別の地位をもっていた「国語科」は、天皇制国家の「臣民」を創出する課題を担って1900年に誕生したものであったが(3)、「地理科」も日清戦争(1894―1895)に勝利した後の明治30年代、「文明優劣に段階分けするという明治初期に輸入した学知を、日本帝国内におけるマイノリティ支配の正当化のための学知へとして転換して」いた(4)。

『破戒』が書かれていた1900年代初期の日本について、橋川文三は「天皇の権威を頂点として精密な機構化を完成した帝国であり、その帝国内に生きんとする限り、自らその帝国の機構の運転者となるか、さもなければ帝国の生活運動とは無関係に、自己の『私』をまさしく私生活内の世わたりとして磨きあげるか、もしくは官能ないし手製の信仰の中に、その『私』をとじこめるしかないという状態であった」(5)と述べている。小学校の行事や教科において重要な役割を担っていた丑松は、いわば「自ら帝国の機構の運転者となる」道を歩んでいたといえるだろう。しかし、学校が差別と「異分子」排除の空間であることを描き出した藤村であったが、紀元節の儀式に関して「平和と喜悦とは式場に満ち溢れた」と表現しているように、時代の制約とはいえ、そのような学校における差別と「異分子」排除が天皇制国家の本質を反映したものであることに根本的な疑問をもつことはなかった(6)。

このように見てくると、これまで部落解放運動の観点から議論されてきた丑松の卑屈な告白や「テキサス」行きの問題も、「帝国の機構の運転者」ともいうべき道を歩んできた丑松という面から再解釈する必要があるのではないだろうか。

 

(1)橋川文三『昭和維新試論』(朝日新聞社、1984年、96頁)。

(2)中島岳志・島薗進『愛と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書、2016年)。

(3)岩佐壮四朗「『国語科』の成立と『破戒』」(『日本文学』No.696、2011年)。

(4)竹沢泰子「明治期の地理教科書にみる人種・種・民族」(京都大学人文科学研究所『人文学報』第114号、2019年

   12月、229頁)。

(5)橋川文三、前掲書、100頁。

(6)『破戒』が出版されてから4年後の1910年には幸徳秋水ら「異分子」を排除するために大逆事件が捏造されており、これに関して、色川大吉は「幸徳らが身をもって示したことは、天皇制は慈愛に満ちた無限抱擁の体系ではなく、異端の排除には手段をえらばぬ暴虐をなすものであり、その和気藹藹のかげに、人の心を凍らせるような酷薄さをかくしている矛盾体だという真実であった。」(『明治の文化』岩波書店、1970年、334頁)と指摘している。