「帝国の機構の運転者」としての丑松(1)

日露戦争の勃発した1904年の春に稿を起し、日露戦争後まもない1905年に脱稿した『破戒』は、丑松が蓮華寺へ引っ越しの日程を決めに行く10月26日(第一章)から、「進退伺」を出して飯山を去る12月3日(第二十三章)までの物語である。年代は記されていないが、小学校令が改正され、丑松の担当していた国語科が設置されたのが1900年で、師範学校を出た丑松が飯山の小学校に来てから「足掛三年目」であること、1904年2月に開戦した日露戦争の記述がないことから、1903年のことと思われる。この時の丑松は「漸く二十四」で、勤務先の飯山の小学校では、国語、地理を担当するとともに、教科以外にも、後述するように、「主座教員」として重要な役割を担っている。その丑松の生立ちとは、次のようなものである。

 瀬川丑松は、見たところは「皮膚といい、骨格といい、別に賤民らしいところがあるとも思われない」が、「小諸の向町(穢多町)」の生まれであった。父親は、明治維新までは「40戸ばかりの一族の『お頭』と言われる家柄」で、祖先は朝鮮、中国、ロシアからの「異邦人の末」ではなく、「古の武士の落人」という「血統」であった。父親は「貧苦と零落との為に小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかった」。母とは移住する前に死別していた。丑松は「小諸の向町」に居た「七つ八つの頃まで、よく他の子供に調戯(からか)われたり、石を投げられたりした」が、「(小県郡の―宮本)根津村の学校へ通うようになってからは、もう普通の児童で、誰もこの可憐な新入生を穢多の子と思うものはなかった」。その後、長野の師範学校に入学するが、「多くの他の学友と同じように、衣食の途を得る為で―それは小学教師を志願するようなものは、誰しも似た境遇に居るから―」であった。

 この師範学校への入学のために親元を離れる時、丑松は、父親から自らの「血統」と、「罪悪の為に穢れたような家族ではない」ことを教えられ、「世に出て身を立てる穢多の子の秘訣」として「身の素性を隠すより他にない」、「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅(めぐりあ)おうと決してそれとは自白(うちあ)けるな、一旦の憤怒悲哀からこの戒を忘れたらその時こそ社会(よのなか)から捨てられたものと思え」と命じられた。父親のこの戒の背景には、「自分で思うように成らない、だから、せめて子孫は思うようにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒(どうか)子孫に行なわせたい。」という思いがあった。そして、父親は「丑松に一生の戒を教えただけでなく、自分もまたなるべく人目につかないように」と人里遠い山の奥に隠れ住んだ。

 その後、師範学校に入学した丑松は、父親とは「親子はなればなれ」となり、「六七年の間は一緒に長く居て見たこと」はなかった。そして、「正教員という格につけられて、学力優等の卒業生として、長野の師範校を出たのは丁度二十二の年齢の春。社会へ突出される、直に丑松はこの飯山に来た。それから足掛三年目の今日、丑松はただ熱心な青年教師として、飯山の町の人に知られているのみ」であった。飯山の小学校における「席順」は、「丑松は首座。生徒の人望は反って校長の上にある程」、次が師範学校以来の友人の土屋銀之助、「第三席」が「検定試験を受けて、合格して此頃新しく赴任してきた正教員」の勝野文平であった。「首座」とは「首座教員」(88頁では「主座教員」と表記されている)のことで、現在の教頭のような立場であった。

このような丑松の造形は、藤村が保持していた次のような部落観が関係していた。藤村は、『破戒』を出版してから3カ月後にエッセイ「山国の新平民」(『文庫』1906年6月号。塩見鮮一郎編『被差別小説傑作集』河出文庫、2016年収録)を発表し、部落民を「開化した方」と「開化しない方」に分け、「開化した方」は「容貌も性癖も言葉づかいなども凡ての事が殆んど吾々と変わる所はない」が、「開化しない方」の「野蛮人でも下等の野蛮人」は容貌、性格、顔の骨格、皮膚の色が「違ってる」と書いていた(同書、93―94頁)。

こうした部落観は、藤村が部落に対して人種主義的な見方をしていたことを示しているが、人種に関してまず強調しておかねばならないのは、人種という概念はヨーロッパが発した支配と差別のための概念であり、最近のDNAやゲノムなどの遺伝子研究から、科学的には破綻しているということである(1)。その意味で、多くの人が言うように藤村が部落に対する人種差別的な偏見を保持していたことは明らかである。そのこととも関連するが、丑松の出発の時に手づくりの「草鞋一足、雪の爪掛け一つ」を贈った蓮華寺の寺男の庄太を「庄馬鹿」「愚かしい目付」、病身の風間敬之進に「万一のことか有ったら一切は自分で引き受けよう」と申し出る「百姓の音作」も「音作は愚かしい目付をしながら」などと表現しているように、貧困にあえぎ、学問を身に付けられる環境を奪われている人たちを「無智」「野蛮」と裁断する、文明的な価値観に囚われていたことも見逃してはならないだろう(2)。

それゆえに、藤村は丑松が師範学校を「学力優等」で卒業した知識人で、それから幾年も経っていないのに「主座教員」の地位に就いた人物に設定しなければならなかったのであり、そうした部落ではエリートともいうべき人間をつくりだした父親にも、「お頭」という家柄、昔の「武士の落人」という日本人の「血統」、「貧苦と零落との為に小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかった」などの特別な条件を付与しなければならなかったのであった。

先にも見たように、丑松に関しては、「部落民としての肉体を持っていないし、心理も持っていない」(3)と語られるが、「脱色した部落民」という主人公の設定こそが藤村の意図したものであって、そのような批判は的を射たものとはいえないだろう。その意味で、志賀直哉の「藤村氏は種族としてのえたに同情したのか。えたとして。いやしめられてゐるえたでない人に同情したのか、その辺が少し不明だ。不明だといつては悪いが。僕には解らなかった。丑松は本当はえたぢゃないんだらう?」という感想は、『破戒』を素直にそのまま受けとめたものであったといえるだろう。

 

(1)竹沢泰子「人種概念の包括的理解に向けて」(竹沢泰子編『人種概念の普遍性を問う』人文書院、2005年)参照。

(2)この点について、詳しくは黒川みどり『創られた人種 部落差別と人種主義』(有志舎、2016年)を参照されたい。

(3)野間宏「『破戒』について」(岩波文庫『破戒』解説、1956年。『解放の文学 その根元―野間宏評論・講演・対話

   集』解放出版社、1988年、54頁)。