世紀転換期の文学

 これまで繰り返し述べてきたように、『破戒』を読み解くためには、藤村の生涯や思想とともに、日露戦争前後の時代の状況との関連性を考える必要がある。『破戒』の出版から3年後に刊行された田山花袋の『田舎教師』(1909年)は、日露戦争に日本全土が沸き立つ中で立身出世の夢も破れ、国家の大事に加わることもできず、「遼陽陥落の日の翌日」に結核でひっそりと死んでいった代用教員・林清三の煩悶の日々を描いたものであり、そこからは日露戦争の期間を通して、戦争と愛国心による国民統合が強力に進んでいく状況が見事に映し出されている。

 『破戒』を執筆していた当時の内幕を描いた短編『突貫』の中で、「『万歳――『万歳』――』/長い行列が雪の中を遠ざかつて行くのを聞きながら、私は自分の眼にあることを紙に写して見た。私は戦争を外に見て、全く自分の製作に耽るほど静かな気分には成れない。私の心は外物の為に影響され易くて困る。私の始めたことは私の心を左様静かにさせては置かないやうなものだ。」(1)と書き記しているように、このような日露戦争下の時代相は藤村自身に大きな影響を及ぼしていた。

『破戒』における丑松の「テキサス」行きの問題も、そうした時代の状況が刻みつけられている。この点について、丑松が誘われた大日向の新事業(農業)の計画が「テキサス」の「日本村」であったことに注目した高榮蘭は、その当時本格的渡米ブームの中で「テキサス」が「資本をもった集団移住」の対象であり、「テキサス」行きが「『平和的』日本膨張として意味づけられていた」として、「丑松の最後の飛躍が『「日本」という国家からの脱出』を意味するとはいえないだろう。なぜなら『テキサス』は『「国家」という堅固な秩序体系とは無縁』な場であるどころか、まぎれもなく『新日本』建設の場にほかならなかったからである。」(2)と論じている。

このような高榮蘭の指摘は、「テキサス」行きと日露戦争前後の日本帝国の植民地領有への欲望との関連を明らかにした注目すべきものであるが、この「移民」の問題以外にも、『破戒』には19―20世紀転換期における差別意識のあり様や鉄道網の整備と地方の変容、教育制度の確立、地主=小作制度の強化などが映しだされている。その意味で、『破戒』は世紀転換期の日本社会をみすえた文学として、改めて読みかえす必要があると思う。

たとえば、鉄道網の整備に関しては「信越線の鉄道に伴う山上の都会の盛衰、昔の北国街道の栄花、今の死駅の零落―およそ信濃路のさまざまな、それらのことは二人(丑松と猪子連太郎―宮本)の談話に上った。」(新潮文庫版『破戒』147頁)と描かれ、資本主義体制の急速な発展とアジア大陸への進出のために、日清戦争の直前には鉄道施設法が公布され(1892年)、日露戦争の直後には鉄道国有法が公布されて(1906年)、全国の鉄道網がほぼ完成されていく中で、旧街道沿いの繁栄していた宿場がさびれ、鉄道沿いの町々が繁栄する状況が浮きぼりにされている。こうした地方の変容は、鉄道網の整備による中央と地方の分業、地方の周辺化がもたらしたものであるが(3)、この時期に強化される地主=小作制度の実態についても、毎年小作人が田畑の使用料としておさめる「年貢」(米)をめぐる風間敬之進の妻、その小作の手伝いをする音作と地主とのやり取りや地主への酒の接待などを通して具体的に描かれている(295―301頁)。

とりわけ、丑松が勤務する小学校教育の状況についてはさらに詳しく描かれ、1890年10月の「教育勅語」と同時に公布された「小学校令改正」により設置された郡視学の小学校視察について、「その日の郡視学と二三の町会議員とか参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許ずつ見た。郡視学が校長に与えた注意というは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホーム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件であった。」「この校長に言わせると、教育は即ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。」(21頁)と、郡視学の監督下に置かれた小学校の状況と郡視学が大きな権力をふるっていたことが明らかにされている。

この郡視学の「参校」の場面の後、視察を終えて応接室に入った郡視学に対して、「教育基金令」(1890年公布)という勅令によって金牌を授与された校長が「まあ、私が直接に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向かって、まさかそんなことが言えもしますまいが――というのは、教育者が金牌などを貰って鬼の首でも取ったように思うのは大間違だと。(略)瀬川君などに言わせたら価値の無いものでしょう。然し金牌は表章です。表章が何も有難くは無い。唯その意味に値打がある。ははははは、まあそうじゃ有ますまいか」(27頁)と、丑松への不満を漏らし、これに続いて郡視学と校長の間で次のような重要な会話が交わされている。

   「そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有そうなものですがなあ」と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。

   「方法とは?」と校長も熱心に。

   「他の学校へ移すとか、後釜へは――それ、君の気に入った人を入れるとかさ。」

   「そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧くやらないと――あれで瀬川君はなかなか生徒間に人望が有ますから」

   「そうさ、過失の無いものに向って、出て行けとも言われん。ははははは、余りまた細工をしたように思われるのも厭だ」と言って郡視学は気を変えて、「まあ私の口から甥を褒めるでも有りませんが、貴方の為に必定お役に立つだろうと思いますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいという積りだ。一体瀬川君は何処が好いんでしょう。どうしてあんな教師に生徒が大騒ぎするんだか――私なんかにはさっぱり解らん。他の名誉に思うことを冷笑するなんて、どういうことがそんならば瀬川君なぞには難有いんです。」

   「先ず猪子連太郎あたりの思想でしょう。」

   「むむ――あの穢多か」と郡視学は顔を渋める。

   「ああ」と校長も深く嘆息した。「猪子のような男の書いたものが若いものに読まれるかと思えば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年の身をあやめる原因です。その為に畸形の人間が出来て見たり、狂(きちがい)見たような男が飛出したりする。ああ、ああ、今の青年の思想ばかりはどうしても吾儕に解りません。」(27―28頁)

このような丑松排除の話は、「天長節」の儀式の後にも行われており、校長は郡視学の甥にあたる若い教師・勝野文平に対して「瀬川君だの、土屋君だの、ああいう異分子が居ると、どうも学校の統一がつかなくて困る。(略)難物は瀬川君です。瀬川君さえ居なくなって了えば、後は君、もう吾儕の天下さ。どうかして瀬川君を廃して、是非その後へは君に座って頂きたい。実は君の叔父さんからも種々御話が有ましたがね、叔父さんもやっぱりそういう意見なんです。何とか君、巧い工夫はあるまいかね。」(92頁)と話している。

注目する必要があるのは、丑松に対する身元暴きが始まる以前に、こうした丑松排除の話が持ち出されている点である。校長や郡視学が問題視しているのは、天皇が発した法令(勅令)にもとづく金牌の授与に対して、「教育者が金牌などを貰って鬼の首でも取ったように思うのは大間違だと」というような丑松の「不健全」な考えであり、それが郡視学や校長など体制側の思想とは相容れぬものであったからだった。そして、この場面を作品の最初の方に置き、また、最後の方でも校長が「昨日生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になった理由を演説したこと、その時丑松の人物を非難したり、平素の行為に就いて激しい攻撃を加えたり、寧ろ今度の改革は(校長はわざわざ改革という言葉を用いた)学校の将来に取って非常な好都合であると言ったこと―そんなことは銀之助の知らない出来事であった。ああ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑―世を焼く火焔は出発の間際まで丑松の身に追い迫って来たのである。」(412頁)という場面を置いていることからすると、藤村は学校が差別と「異分子」排除の空間であったことを強調したかったのではないだろうか。

藤村に対しては、「底辺としての部落民を主人公にえらびながら、ついに撃つべき封建のヒエラルキーをそのものとしてよく認識しえない。」(4)という批判もあるが、少なくとも部落差別を利用して丑松を排除しようとする校長や郡視学の実態を明確に描き出したのは事実であり、そこにはそうした権力者に対する藤村の激しい怒りや憎しみが存在していたといえるだろう。

 

(1)島崎藤村「突貫」(初出『太陽』1913年1月。『島崎藤村禅宗』第5巻、筑摩書房、1981年収録)。

(2)高榮蘭「『破戒』における『テキサス』」(『「戦後」というイデオロギー』藤原書店、2010年、95頁)。

(3)西川長夫「帝国の形成と国民化」(西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』柏書房、1999

   年、17―18頁)参照。

(4)平野謙「『破戒』について」(新潮文庫版『破戒』452頁)。